TAG
#play-philosophy
0 レビュー · 25 エッセイ
関連エッセイ
ガチャは遊びか、賭博か——同じ機械に入る、二種類のコイン
『パズル&ドラゴンズ』の卵の機械には、ダンジョンで拾った魔法石も、お金で買った魔法石も入る。『HoloCure』のガチャは、ゲーム内で稼いだコインでしか回せない。どれが遊びで、どれが賭博なのか。運の遊びを「アレア」と呼んだカイヨワと、『自由論』で賭博場を論じたミルを差し向かいに座らせた。二人が並んだのは、機械の形ではなく、コインの出どころの前だった。
正しいのに、美しくない盤面 —— カント「目的なき合目的性」×『Hexcells Infinite』
自動生成した盤面は全部正しく解ける。なのに一枚も美しくない——作り手 Komugi が、カント『判断力批判』の「目的なき合目的性」に答えを探しに行く。照らし合わせるのは、手作り36面と自動生成面が同じルールで並ぶ『Hexcells Infinite』(Matthew Brown、2014)。生成面が冷たいのは目的がないからではなく、どのヒントにも目的が透けて見えすぎるからだった。きっちり揃えた対称の盤がすぐ飽きる理由まで、カントは先回りして書いていた。持ち帰りは「一意性のためではない理由で置いたヒントを一つだけ入れ、その理由は言わない」。
「積む」のも遊びのうちか——買ったまま起動していない棚について
Steam のライブラリで「未プレイ」に絞り込んだら、思ったより長い列が出た。積みゲーには、少し後ろめたい響きがある。でも『Strange Horticulture』(Bad Viking、2022)の棚に並ぶ、名前の分からない鉢を後ろめたく感じたことはない。何が違うのか。多すぎる書物は重荷だと書いたセネカと、自分の蔵書を箱から出しながらエッセイを書いたベンヤミンを差し向かいに座らせた。
実力だけの世界は、なぜ立っていられないのか —— カイヨワ講読④
カイヨワ『遊びと人間』講読④は第二部へ。ここから本は、社会を「どんな遊びを好むか」で読みはじめる。競争と偶然の章で見えてくるのは、実力だけで回る社会は、負けた人に言い訳を一つも残さないという事実だ。だから社会は、宝くじとスターへの憧れという二つの逃げ道を用意している。Spelunky 2 のデイリーと Fall Guys を並べ、順位表の横に「負けの置き場所」を作る設計を考える。
ゲームが「うまい」とは何か——技術か、知識か、見ている場所か
自作パズルのテストプレイで、同じ盤面を3分で解いた人と、20分かかった人がいた。定石を全部知っていたのは、遅かったほうだ。『Into the Breach』(Subset Games、2018)は敵の次の一手まで盤面に全部出ているのに、うまい下手がはっきり出る。差が「知っていること」でないなら、うまさとは何なのか。デカルトとポランニーを差し向かいに座らせた。
止められる目と、止められない目 —— フーコー「パノプティコン」×実績とログインボーナス
連続記録や実績は、なぜあんなに人を動かすのか。フーコーは『監獄の誕生』で、中央の塔から見られているかもしれない独房の話を書いた。権力は目に見えて、しかも働いているかは確かめられない——だから人は、見張りを自分の中に置く。この図面をそのまま風景にしたゲームが『The Talos Principle』(Croteam・2014)だった。ジャマーで止められるタレットとブザー、止める道具が最後まで配られないエロヒムの声。そこで気づいたのは、実績の一覧が「禁止の一覧」ではなく「未達成の一覧」だということだ。
「時間の無駄」と言われたら、どう答えるか
自分のパズルの紹介文を三日書き直している。「集中力が上がります」と書けば、遊ぶ理由を相手の代わりに用意してあげられる。でもその一行を置いた瞬間、パズルは道具になる。『Unpacking』(Witch Beam、2021)を「時間の無駄」と呼ぶ人を見たことがないのは、それが片付けという役に立ちそうな形をしているからだ。遊びの正体・かけら枠は、遊びは休息にすぎないと書いたアリストテレスと、人は遊ぶときにだけ完全に人間だと書いたシラーを差し向かいに座らせる。噛み合わない二人が、たった一点で合流する。
イージーモードを選ぶのは「逃げ」か
自分のパズルに難易度の切り替えを入れるかどうかで、二週間止まっている。止まっているのは実装ではなく、切り替えを置いた瞬間、選んだ人が「逃げた」と感じてしまう気がするからだ。『Celeste』のアシストモードは、2019年にその前置き文を書き換えている。「おすすめしない」から「見つけてほしい」へ。遊びの正体・かけら枠は、抵抗が人を形にすると考えたヘーゲルと、そもそも誰が「逃げ」を判定するのかと問うミルを差し向かいに座らせる。二人が合流する場所は、思っていたより近い。
遊びがこぼれると、何になるのか —— カイヨワ講読③
カイヨワ『遊びと人間』講読③は「遊びの堕落」の章。遊びが壊れるのは熱中しすぎたときではなく、時間と場所の囲いが消えたときだ、とカイヨワは書く。しかも彼は4つの衝動それぞれに、遊びの外にある「まっとうな受け皿」も並べている。つまり外に出るのは事故ではなく、枠を持たずに出ることが事故なのだ。Cookie Clicker・Rust・A Little to the Left で照合し、デイリーパズルの通知とストリークを引き直す。
実績100%は誰のための完走か——完璧主義と遊びの哲学
深夜、Hollow Knight のセーブデータを開くと、画面の隅に「93%」と出ていた。物語はもう終わっている。それでも、この数字だけが消えない。あと数個を取りに戻る自分は、まだ遊んでいるのか、それとも片づけているのか。遊びの正体・かけらは、正反対の答えを出しそうな二人を差し向かいに座らせる。遊びとは不必要な障害を自分から引き受けることだと書いたバーナード・スーツと、活動には二種類あると書いたアリストテレス。そして、このゲームの満点が100%ですらないことに気づく。
混ぜていい衝動、混ぜてはいけない衝動 —— カイヨワ講読②
デイリーパズルの記録更新モードに画面を揺らす演出を足そうとして、翌日それを消した。同じ「一滴」でも、混ぜて効くものと濁るものがある。カイヨワ『遊びと人間』の続きを開くと、6通りの組み合わせが3つの箱にきれいに仕分けてあった。Dicey Dungeons、Beat Saber、Vampire Survivors、Tetris Effect: Connected で照合しながら、禁じ手を一か所だけ通す方法を探す。
ネタバレはなぜ「盗み」に感じるのか——体験の所有をめぐって
深夜、Return of the Obra Dinn で四十人ぶんの名前と死因を埋めたところで、タイムラインに流れてきた他人の画面写真に、まだ埋めていない欄が写っていた。思わず「盗まれた」と口に出したが、おかしい。何も減っていない。物語は一字も欠けず、私のセーブも無事だ。遊びの正体・かけらは、正反対の答えを出しそうな二人を差し向かいに座らせる。所有は労働から生じると書いたジョン・ロックと、所有は自然ではなく人間の取り決めから生じると書いたデイヴィッド・ヒューム。二人はやがて、腐ったのは物語ではなく「本人が自分の手で摘むはずだった、一度しか実らない実」だという一点で合流する。
ソロゲーのチートは誰を裏切るのか——約束と自己欺瞞の哲学
深夜、XCOM 2 で命中率95%の一撃を外し、分隊が全滅した。誰も見ていない部屋で、私はセーブをロードし直した。被害者はいない。なのに、その夜の勝利だけ手触りが薄い。ひとりで遊ぶゲームでズルをするとき、破られた約束があるとして、その相手は誰なのか。遊びの正体・かけらは、正反対の答えを出しそうな二人を差し向かいに座らせる。嘘の最大の相手は自分自身だと書いたカントと、ズルは裏切りですらなく「退場」だと言いそうなバーナード・スーツ。二人はやがて、裏切られたのは「その遠回りをわざわざ選んだ、少し前の自分」だという一点で合流する。
「ゲーム」は定義できない — ウィトゲンシュタイン×『Baba Is You』
サイトの紹介文に「パズルとは何か」を書こうとして、手が止まった。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』によれば、「ゲーム」と呼ばれるものすべてに共通する一本の糸はなく、あるのは重なり合う類似の網=家族的類似だけだ。ルールを語ブロックとして盤上に置いた『Baba Is You』でこの話を照合し、ジャンルを定義ではなく家系図で考える持ち帰りまで。
遊びを4つに割る — カイヨワ『遊びと人間』を開く
前回までホイジンガを読んできたが、今日から本を変える。ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』。カイヨワは遊びをアゴン(競争)・アレア(運)・ミミクリ(模擬)・イリンクス(眩暈)の4つに割り、さらにパイディア(騒ぎ)からルドゥス(規則)への坂道を引いた。作り手として、自分のパズルがどの衝動を主軸にしているかを問い直す。
退屈を埋める盤面 — パスカルの「気晴らし」と通勤中のスマホパズル
通勤電車で、隣の人が四×四の小さな盤面をなぞっていた。埋めていたのは盤面じゃなくて、たぶん三駅ぶんの退屈だ。パスカルは『パンセ』で、人間の不幸は部屋にじっとしていられないことから来ると書いた。気晴らし(divertissement)の哲学を、通勤中のスマホパズル『Threes!』に当ててみる。私が作っているのは面白さなのか、逸らすための道具なのか。
運で勝った勝利は「自分の」勝利か——アレアと功績の哲学
深夜、Balatro で自己ベストの一撃が出た。うれしくて友人に送ったら「今の、運だろ」と返ってきた。運が配ったものを、私の勝利と呼んでいいのか。遊びの正体・かけらは、正反対の答えを出しそうな二人を差し向かいに座らせる。運もまた遊びの一等地だと説くカイヨワと、勝利は運ではなく「その人の活動」に宿ると考えるアリストテレス。二人はやがて、「一回の目」と「長い勝率」を、そっと二つの皿に分けはじめる。
『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ — 戦争が遊びでいられる、たったひとつの条件
対戦やPvPを作ろうとすると、勝ち負け以前に空気がギスギスする。戦争ほど遊びから遠いものはないはずなのに、ホイジンガは「ある条件を満たした戦いは遊びだ」と言う。講読編③は「遊びと戦争」。その条件とは、相手を対等な者として認めていること——For Honorのプレイヤーが自作した「名誉の掟」で確かめる。
難しさは不親切か——公正(フェアネス)の哲学
自作パズルの難所を試遊した友人が「これ、不親切じゃない?」と言った。難しくするのは意地悪なのか、贈り物なのか。難易度設定を一切持たない Sekiro のイージーモード論争を横目に、遊びの正体・かけらは、正反対の答えを出しそうな二人を差し向かいに座らせる。無知のヴェールから公正を説くロールズと、「私を殺さないものは私を強くする」と壁を肯定するニーチェ。二人はやがて、「難しさ」ではなく「理不尽さ」を並んで蹴り出しはじめる。
Undoでやり直せる世界で、選択に意味はあるか
自分のパズルにUndoボタンを付けた夜、手が止まった。しかも作っているのはBaba Is You系の、ルール自体を書き換えるパズルだ。戻せるなら、下した決定は「決定」なのか? 遊びの正体・かけら第3回は、サルトルとニーチェを差し向かいで論争させる。選択が自己を宣言すると説くサルトル(アンガジュマン・不安)と、「これを永遠に繰り返してよいと言えるか」を問うニーチェ(永劫回帰・amor fati・様式)。二人はやがて、同じ一本の線を別の名で指す。
『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ — 遊びが競争になるとき、賭けられているのは「名誉」
パズルに順位やスコアを入れると、なぜか急に空気がギスギスすることがある。競争は遊びを面白くするのか、それとも壊すのか。講読編②はホイジンガの「アゴン(競い合い)」。人が競って本当に手に入れたいのは、金でも物でもなく「第一であること」の名誉だ、という話。
攻略を見たら、それは「解いた」と言えるか
詰まったパズルの答えを攻略で見てしまった夜の、あの後ろめたさ。ライルは「解く技能は増えていない」と言い、プラトンは「後で理由を縛りつければ知識になる」と言う。二人の哲学者を対置して、ヒント設計を考え直す。
遊びに意味はあるか — カミュとローグライクの「死に戻り」
ローグライクで38回死んで、それでも潜り直している自分がいる。積み上げたものはほとんど持って帰れないのに、なぜこの反復が面白いのか。「遊びの正体」照合編は、終わりのない反復を正面から論じたカミュ『シーシュポスの神話』を、Hadesの死に戻りに重ねてみる。
『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ — 遊びが作る「秩序」と「緊張」
前回の「魔法円」は入り口にすぎなかった。今回から遊び論の古典『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ、作り手の目で読む。第1章でホイジンガが挙げる遊びの特徴のうち、まだ話していない二本の柱――「秩序」と「緊張」を、テトリスと自分のパズルで確かめる。
遊びとはなにか — ホイジンガと「魔法円」から始める
パズルを作っていると、いちばん基本の問いに戻ってくる。遊びとはなにか。面白さとはなにか。新連載「遊びの正体」は、その問いを哲学者に教わりに行く連載。第1回はホイジンガの「魔法円」— ただの線の内側で、人が本気になる理由の話。



















