ESSAY · 2026-07-10
『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ — 遊びが作る「秩序」と「緊張」
新連載「遊びの正体」講読編①。ホイジンガ第1章を、作り手の目で読む
教科書を、1章ずつ
夜、自分のサイトに並べた新しいパズルを眺めていた。ルールは通っている。バグもない。なのに、なんというか、物足りない。指が伸びない。この「物足りなさ」の正体がわからないまま、もう三日、ノートに同じ図を描いている。
前回、ホイジンガの「魔法円」の話をした。ただの線の内側で人が本気になる、あの不思議。書き終えてから気づいた。魔法円は、彼が遊びについて言ったことの、ほんの入り口でしかない。彼はもっと手前で、そもそも「遊びとはこういうものだ」という定義を一気に置いている。
だから今回から、彼の『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ、作り手の目で読んでいくことにした。学者みたいに全部は追わない。「これ、明日の盤面に使えるか?」だけを持って読む。今日は第1章。遊びの、いちばん骨組みの話だ。
念のため言っておくと、僕はゲームの研究者ではない。ただ、毎晩ここで盤面をいじっている作り手だ。だから理論は、使える形に噛み砕けたぶんだけ持ち帰る。それ以上は持たない。
ホイジンガの「遊びの定義」
第1章でホイジンガは、遊びをいくつもの角度から囲い込み、最後に一つの定義にまとめる。要約するとこうだ。遊びとは、自由な行為であり、日常の外にある「本気ではない」時間でありながら、それをする人を丸ごと夢中にする。時間と場所の枠の中で、自分で決めたのに絶対に守るルールに従って進み、目的は外にではなく遊びそれ自体の中にある。
この一文に、彼の挙げる形式的特徴(formal characteristics)がいくつも畳み込まれている。自由であること。日常ではないこと。時間と場所が限られること。そして――ここからが前回話していない部分だ――秩序を作ること、緊張をはらむこと。
前回の魔法円は「限られていること」の話だった。今日はその隣にある二本の柱、「秩序」と「緊張」を読む。作り手にとっては、たぶんこの二つのほうが直接効く。理論としてより、明日いじる盤面の話として。
ちなみにホイジンガは、この定義を一気に言い切るのではなく、章の終わりまでかけてじわじわ煮詰めていく。今日はその煮汁から、二本の柱だけをすくって持ち帰る。残りはまた次の章で。
「遊び」は「真剣」の反対ではない
第1章でホイジンガが、もう一つしつこく念を押すことがある。遊びは「真剣」の反対ではない、という点だ。私たちはつい、遊び=ふざけ、真剣=仕事、と世界を二つに割りたくなる。でもホイジンガは、その線引きはあてにならないと言う。子どもの遊びを見てみろ、遊んでいる当人ほど、恐ろしく真剣な顔をしているではないか、と。
これは作り手として、いちばん勇気をもらう一節だった。「ただのパズル」を本気で作っていい、と背中を押される。プレイヤーが画面の前で眉間にしわを寄せて数分うなっているとき、彼らはふざけているのではない。魔法円の内側では、遊びこそが最高に真剣な仕事になっている。だから、作る側が一手でも手を抜けば、その真剣さに対して失礼なのだ。
現に、テトリスには世界大会がある(クラシックテトリス世界選手権、2010年開始)。40年前の落ちものパズルに、人生の何百時間も注ぎ込む人たちが、いまも集まってくる。外から眺めれば「ただのブロック」。でも円の内側に入った本人にとっては、一列の置き方に心臓が跳ねる真剣勝負だ。
遊びの気楽さと、真剣さの深さは、矛盾しない。むしろ、この二つがセットになって初めて遊びになる、というのがホイジンガの見立てだと思う。軽いのに本気になれる。そのねじれた同居こそ、たぶん「面白さ」の温床だ。
遊びは秩序を作る、というより秩序そのもの
ホイジンガは、遊びは秩序を作り出す、いや遊びは秩序そのものだ、と書く。遊びの世界には、限られてはいるけれど完全な秩序が持ち込まれる。そしてほんの少しのズレ――ルール違反、リズムの乱れ――が、その世界を丸ごと壊してしまう。ゲームが「台無しになる」あの感覚は、気分の問題ではなく、秩序が破れたということなのだ。
面白いのは、彼がこの秩序を美と結びつけているところだ。遊びは調和とリズムに満ち、美しくなりたがる、と。言われてみれば確かに、と思った。よくできた盤面は、解く前からなんとなく「きれい」に見える。あの「きれい」は飾りではなく、秩序が目に見えている状態なのだろう。
テトリス(アレクセイ・パジトノフ、1984年)を思い出す。あれは要するに、上から降ってくる混沌を、すき間なく積んで消し、秩序に変え続ける遊びだ。列がそろって消える一瞬の快感は、秩序が回復した音がする。逆に、変な段差を作ってしまったときの、あのざわつき。あれこそホイジンガの言う「秩序のわずかなズレ」なのだと思う。
設計の言葉に直すとこうだ。プレイヤーが「気持ちいい」と感じる瞬間は、たいてい秩序が一段回復した瞬間と重なっている。だから、どこで秩序を崩し、どこで回復させるか――その配置こそが、面白さのリズムそのものになる。
そして、緊張
もう一本の柱が緊張だ。ホイジンガは、遊びには緊張――不確実さ、賭け、うまくいくかどうかのぎりぎり――がつきものだと言う。緊張こそが遊びに、ある種の倫理的な価値すら与える、とまで書く。プレイヤーが、公正なルールの中で、自分の力を最後まで試されるからだ。
またテトリスだ。速度が上がっていくあの設計は、秩序を保つことを少しずつ難しくして、緊張を釣り上げていく装置だった。秩序と緊張は別々のものではなく、片方がもう片方をおいしくしている。秩序があるから、それが崩れそうになる緊張が効く。緊張があるから、秩序を保てた瞬間が快感になる。
ここで、自分のパズルの「物足りなさ」の正体が少し見えてきた。ルールは秩序を作れていた。でも、それが崩れそうになる緊張を、どこにも仕込んでいなかった。きれいだけど、賭けがない。安全に整っているだけの盤面。だから、指が伸びなかったのだ。
考えてみれば、僕がこれまで「難しくする」と呼んでいた作業は、たぶん半分が「緊張を足す」作業だった。難易度と緊張は、似ているようで別ものだ。ただ手数を増やすのが難しさ。崩れるかもしれないと思わせるのが緊張。効くのは、たいてい後者のほうだ。
持ち帰り — 秩序と緊張は、セットで設計する
今日の持ち帰りは一行で書ける。面白さは、秩序そのものでも緊張そのものでもなく、「秩序が緊張で揺れる」ところに宿る。盤面をきれいに整えたら、次はそれを危うくする一手を必ず用意する。片方だけでは、まだ遊びになりきらない。せっかく張った魔法円も、揺れない秩序ではすぐに飽きられてしまう。
ウイスキーを一口。図面ノートの、三日ぶんの同じ図の横に、大きく「緊張はどこ?」と書き足した。明日はこれを持って盤面を直す。整いすぎた面に、ひとつだけ崩れの気配を入れてみる。うまくいくかはわからない。でも、直す場所がわかっただけで、今夜は前に進んだ気がする。今夜はここまで。
最後にあなたに聞きたい。あなたが「このゲーム、よくできてる」と感じるとき、効いているのは秩序の側――きれいに整っていること――ですか。それとも緊張の側――ぎりぎりだから面白いこと――ですか。コメントで教えてほしい。次回のしっかり枠は照合編に戻って、カミュ『シーシュポスの神話』×ローグライクの「死に戻り」。何度死んでも潜り直すあの反復を、不条理の哲学で読みます。
参考文献: ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫 訳、中公文庫)第1章「文化現象としての遊びの本質と意味」。
ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫 訳、中公文庫) ※書影はAmazonアソシエイト・リンクです。Amazonのアソシエイトとして、Puzzlebyrinthは適格販売により収入を得ています。
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