DESIGNER-STUDY · 2026-07-08
Bennett Foddy の哲学 — 意味のなさと戦うために、失敗を設計する
QWOP / Getting Over It と「フラストレーションの味」
はじめに — 「失敗」を設計する哲学者
Bennett Foddy(ベネット・フォディ)は、オーストラリア出身、ニューヨーク在住のゲームデザイナーである。陸上競技を操作不能にした『QWOP』(2008)、そして壺に入った男をハンマー一本で山に登らせる『Getting Over It with Bennett Foddy』(2017)で知られる。どちらも「わざと理不尽に難しい」ことで有名だが、私が本稿で追いたいのは作品そのものではなく、その裏にいる人物である。
なぜ今フォディなのか。彼はもともと薬物依存を研究した道徳哲学者であり、ゲーム作りを「文学的」だと語る珍しいデザイナーだ(Wikipedia)。しかも彼は自分の設計原理を、インタビューだけでなく本人のブログにまで明文化して残している。つまり考察の材料が本人の言葉で揃っている。私はここでは、彼が公に語ったことだけを根拠に、その哲学・こだわり・失敗談・ジレンマ・影響源を読み解いていく。
経歴 — 哲学の余白で作られたゲーム
フォディは1978年オーストラリア生まれ。両親は学者で、彼自身も哲学を専攻した。友人ダン・ウィットフォードが始めたエレクトロ・バンド Cut Copy でベースを弾いた時期もあるが、バンド活動が哲学の勉強と衝突すると後者を選び、2003年に依存症と認知科学を主題にメルボルン大学の博士課程へ進む(Wikipedia)。
興味深いのは、彼が「私の最良の設計仕事は、別の仕事を先延ばしにしている最中に生まれた」と語っている点だ(Wikipedia)。2006年頃から独学でプログラミングを覚え、博士論文の合間に Flash ゲームを作り始める。だが哲学者としての体面のため、この趣味は同僚に隠していたという。プリンストン大学のポスドク時代(2007–2010)に作った『QWOP』が、2010年に SNS の普及とともに突如バイラル化した。
その後オックスフォード大学の科学倫理研究所で副所長を務めた後、彼はゲーム設計の道を選び、現在は NYU Game Center の教員である(Wikipedia)。日本の読者に一言添えるなら、彼は「難しさを研究する学者肌のインディー作家」であり、作品は少ないが一本ごとに濃密な設計思想が詰まっている、という位置づけの人物だ。
哲学 — 「ゲームは意味を持たない」から始める
フォディの発言を横断して最初に立ち上がるのは、逆説的な出発点だ。彼は「ゲームデザイナーとして直面する最も根本的な問題は、ゲームが意味を持たない、偽物だ、想像上の遊び場だということだ」と語る(Game Developer, 2018 の趣旨)。だからこそ彼は、勝ち負けを「本当に大事に感じさせる」仕掛けを探す。『Getting Over It』で山を登る快感を「積み上げた進捗」として体に覚えさせ、それが一瞬で滑り落ちる設計にしたのは、この空虚を埋めるためだ。
第二に、彼は「フラストレーション」を欠陥ではなく素材として扱う。自身のブログでは「摩擦のない、不服従のないゲームは、ただのソフトウェアにすぎない」と書く(foddy.net, 2017 の趣旨)。フラストレーションこそ『Space Invaders』や『Myst』を名作たらしめている本質だ、というのが彼の主張である。
第三の柱が「不服従(disobedience)」だ。彼はインタビューで「プレイヤーはゲームの所有者であっても支配者であってもならない。ゲーム自身がプレイヤーに対してある種の支配を持つべきだ」と述べる(Handmade Pixels, 2018 の趣旨)。「従順なソフトウェアの中に、遊び心が存在できるとは思えない」——ここに、彼が Photoshop のような道具と、遊びとしてのゲームを峻別する態度が最もよく表れている。
こだわり — フラストレーションを「味」で分類する
彼のこだわりで最も特徴的なのは、フラストレーションを味覚のように腑分けする癖だ。2017年のブログ「Eleven Flavors of Frustration」で、彼は「あと一歩なのに届かない」「振り出しに戻る」「行って戻って」など十一種の味を、それぞれ体のどこで感じるかまで書き分けている(foddy.net, 2017)。彼自身これを「網羅的なレシピ帳でも分類学でもなく、好みの味をいくつか並べただけ」と断っているが、この解像度の高さが彼の設計の核にある。
もう一つは「期待のフレーミング」への執着だ。『QWOP』の奇妙な見た目について、彼は「有能なアーティストがゲームに使わない絵柄だからこそ、最初の興味が生まれる」と説明する(Handmade Pixels, 2018 の趣旨)。難しさの体験は、プレイヤーがその課題にどれだけの時間を見積もるか、という枠組みに強く依存する——これは彼が繰り返し立ち返る観点だ。
三つめは「観客のための設計」。彼はニューヨークの Babycastles で人々が『QWOP』に群がるのを見て以来、「プレイを待つ人・見ている人が引き出す楽しさ」を意識するようになったと語る(Handmade Pixels, 2018 の趣旨)。配信で Markiplier が椅子を投げ、韓国のプレイヤーが敗北して丸刈りにした——そうした観客側の反応が、彼の設計の中心に据えられている。
失敗と乗り越え方 — 自作を登れない作者
本人が公に語った失敗として、まず愉快なのは「自分のゲームをクリアできなかった」という告白だ。Steam 版発売直前、バグ確認のためにプレイし通そうとしても登り切れなかったと彼は言う。「頂上近くまで行っては転げ落ちる。練習不足のせいではない。緊張して固くなり、慎重になりすぎて、取り落とすんだ」(Game Developer, 2018 の趣旨)。作者自身が「choke(本番で固まる)」の心理を身をもって証明してしまったわけである。
もう一つは、ナレーションの全面書き直しだ。『Getting Over It』で失敗時に流れる本人の語りは、当初「はるかに嘲るような、皮肉なもの」だったと彼は明かす。だが人々はすでに彼が望む強い感情を抱いていたため、ほぼ全面的に励ます方向へ書き換えたという(Game Developer, 2018 の趣旨)。作った本人が、プレイヤーの反応を見て自分の第一稿を捨てられる——この修正力は、彼の「観客のための設計」という信条と地続きだと私は読む。
デザイン上のジレンマ — 励ましと嘲りのあいだ
彼が明確に「悩んだ」と語るジレンマは、励ましの言葉の扱いだ。ナレーションを励ます方向へ直しても、彼は「ほんの少しの嘲り、目配せ」を残したかったという。理由がふるっている。「完全に不快感のない励まし方など存在しない。失敗を指摘しないことでさえ、それはそれで癪に障る」(Game Developer, 2018 の趣旨)。優しさが、時に最も苛立たせる——彼はこの矛盾を消さずに設計に残した。
もう一つは「ソフトウェアとしての有用さ」と「不服従な芸術」の板挟みだ。彼は『N++』の美しい配色が、プレイヤーがメニューで自由に選べる機能として露出していることに強い違和感を語る。「そこで体験が抜け落ちていくのを感じた。ゲームが芸術としての権威に立っていない」(Handmade Pixels, 2018 の趣旨)。同時に彼は、正しい解像度やフレームレートで動くという意味では「従順であってほしい」とも認める。どこまで従順で、どこから不服従か——その線引きこそ彼の設計の緊張点だ。
さらに彼は「作者の意図」と「プレイヤーの自己表現」の対立にも自覚的だ。「私は『作者の死』がまだ有効とされた時代に英文学を学んだ」と述べつつ、それでも一人用ゲームには、プレイヤーに押し返し・問いかける役割が要る、と考える(Handmade Pixels, 2018 の趣旨)。彼は作者の支配を望むのではなく、作品そのものに摩擦の担い手であってほしいのだ。
影響源 — 理不尽だった古いゲームたち
本人が認める最大の直接の源は、Jazzuo の『Sexy Hiking』だ。『Getting Over It』はこの作品に「直接触発された」と彼は明言する(Game Developer, 2018 の趣旨)。加えて、幼少期にオーストラリアで遊んだ ZX Spectrum や Commodore 64 のゲーム群——死ぬと最初に戻される『Jet Set Willy』のような「不公平さ」——が、彼の送り返される美学の原点だと語る。
同時代の作家からの刺激も明快だ。彼はセーブによって消えた「送り返される味」が、Souls シリーズや『Spelunky』でわずかに生き延びていると見る(Game Developer, 2018 / foddy.net, 2017)。「不服従」という概念自体は、Robert Yang の『Hurt Me Plenty』を見て言語化されたと述べる(Handmade Pixels, 2018 の趣旨)。
「Eleven Flavors」では、彼が敬意を払う同業者の作品が味の実例として引かれる——increpare(Stephen Lavelle)の『Grave』、Zach Barth の『TIS-100』、Jonathan Blow の『The Witness』、Messhof の『Punishment』(foddy.net, 2017)。視覚面では Amiga の『Kickstart 2』や Adam Saltsman の Flixel の美学、Jeff Minter ら初期のひとり開発者への共感も語っている(Handmade Pixels, 2018 の趣旨)。
Kizuki の読み
ここからは本人発言から一歩踏み込んだ私の解釈である。私はフォディを「快楽ではなく意味の欠如と戦うデザイナー」と読む。多くの作家が「どうすれば気持ちよくなるか」を問うのに対し、彼は「ゲームは偽物だ」という前提から出発し、いかに空虚を埋めるかを問う。フラストレーションも、送り返しも、壺の男が滑り落ちる残酷さも、すべては、どうでもよさを、どうでもよくなくするための装置だ、と整理できる。
そしてもう一つ。哲学者としての彼が依存症の報酬回路を研究したことと、ゲームで報酬と罰を操作することの間には、本人も認める通り不気味な連続性がある。私見では、彼のゲームは「報酬をちらつかせて縛る依存の仕組み」を逆手に取り、あえて報酬を奪い、罰の味を精密に調律してみせる——依存の解剖学者が、その知識で人を苛立たせて楽しませている、という危うい魅力が彼にはある。もっとも、これはあくまで私の読みであって、彼自身がそう言い切ったわけではない。
おわりに — どこから触れるか
フォディを理解したいなら、まずブラウザで無料の『QWOP』に数分触れ、思い通りに動かない体を笑ってから、『Getting Over It』のナレーションを聞くのがいい。「意味のなさ」と戦う彼の身振りが、頭ではなく手で分かる。時間があれば「Eleven Flavors of Frustration」を一読すると、彼が味をどれだけ真剣に語るかが伝わるはずだ。
本サイトの他のデザイナー考察へも導線を引いておく。フォディが「味の実例」に挙げた作家たち——『The Witness』の Jonathan Blow、『TIS-100』の Zach Barth、increpare こと Stephen Lavelle——は、いずれも私が別稿で扱っている。彼らを並べて読むと、難しさや不親切さをどう正当化するかという問いに、それぞれ異なる答えがあることが見えてくる。
参考文献
本記事で参照した一次資料および出典:
・Handmade Pixels (Jesper Juul) 「Interview with Bennett Foddy」2018年3月22日収録(本人インタビュー)
・Bennett Foddy 本人ブログ 「Eleven Flavors of Frustration」2017年1月16日(本人執筆)
・Wikipedia 「Bennett Foddy」(経歴・作品リストの確認用)
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