ESSAY · 2026-07-11
遊びに意味はあるか — カミュとローグライクの「死に戻り」
連載「遊びの正体」照合編。シーシュポスの岩と、何度死んでも潜り直すあの反復
はじめに — 38回死んで、また潜る
夜、ローグライクで38回目に死んだ。ボス部屋の手前、いつもの角。画面が暗転して、また最初の部屋に戻される。積み上げた強化も持ち物も、ほとんど何も持って帰れない。ふつうに考えたら、これは罰だ。なのに私はグラスに氷を足して、また潜り直している。この反復のどこが面白いのか、自分でも説明できないまま、パズルのリトライ画面を作る手が止まった。
「遊びの正体」、今回は照合編に戻る。相手はアルベール・カミュ。『シーシュポスの神話』で、終わりのない反復を正面から論じた人だ。難しい実存主義の話はしない(というより、できない)。カミュが最後に置いた「岩を押すシーシュポスを幸福だと想え」という一行を、ローグライクの死に戻りに一枚ずつ重ねていく。
シーシュポスの岩 — 下山のあの一瞬
神話のシーシュポスは、神々を欺いた罰として、巨大な岩を山頂へ押し上げ続ける。頂上に着いたその瞬間、岩は自分の重みで転がり落ちる。彼はまた麓へ下り、また押し上げる。永遠に、何も生まない労働の反復。カミュはこれを、意味を欠いた人生——彼の言う「不条理」——のいちばん純粋な像として選んだ。
面白いのは、カミュが注目したのが労働そのものではなく、意外な一瞬だったことだ。岩が転がり落ちたあと、シーシュポスがそれを追って山を下りていく、あの帰り道。労働から解放され、自分の運命をはっきり意識できる短い時間。カミュはそこにこそ人間の勝利を見る。「意識ある労働者」であるかぎり、彼は自分の運命より上にいる、と。
ここが肝心だ。カミュは、罰そのものを軽くしろとは一言も言っていない。岩は重いままでいい。変わるのは、押す人間の意識のほうだ。運命を見下ろし「これは自分の岩だ」と引き受けた瞬間、同じ労働が罰から自分の仕事に変わる。外側の岩は一ミリも動かないのに、内側だけで勝負がつく——そういう不思議な勝ち方を、カミュは描いてみせた。
そして結末の有名な一行。原文では "The struggle itself toward the heights is enough to fill a man's heart. One must imagine Sisyphus happy."(頂上を目指す闘いそのものが、人の心を満たすのに足りる。シーシュポスは幸福なのだと想わねばならない)。幸福は結果——頂上——ではなく、闘いそのものと、それを意識することに宿る。カミュのこの結論を、そのまま握って冥界へ潜る。
Hades — 死ぬたびに進む物語
照合するゲームは Hades(Supergiant Games、2020年正式リリース)。主人公は冥界の王ハデスの息子ザグレウス。地上へ逃げ出そうと、冥界を下から上へ駆け上がる。そして死ぬ。何度でも死ぬ。倒されるたびに血の池から引き上げられ、また父の館の玄関に立たされる。まさにシーシュポスの構図——頂上寸前で振り出しに戻る反復だ。
ところがHadesは、その反復をふつうのゲームと逆向きに使う。死は失敗ではなく、物語を進める燃料になっている。死んで館に戻るたび、住人たちは新しい台詞を話し、「夜の鏡」で少しずつ強くなり、家族の込み入った事情が一枚ずつ明かされていく。開発陣は、ローグライクの周回構造を使って物語を分割配信する「手続き的な語り(procedural narrative)」を意図して設計した。失敗が、進行になっている。
具体的に書くと、こうだ。何度目かの死のあと館に戻ると、師範のアキレウスが戦い方の助言をくれ、夜の女神ニュクスがぽつりと身の上を語り、父ハデスは玉座から「またか」と冷たく言い放つ。同じ顔ぶれが、こちらの周回数に合わせて少しずつ違う言葉をかけてくる。死そのものは同じでも、戻ってくる先の景色は毎回わずかに違う。この「少しずつ違う」が、手ぶらの帰り道を退屈から救っている。
ここで気づく。カミュが幸福の鍵に置いた「下山のあの一瞬」に、Hadesはちょうど対応するものを持っている。死んで館に戻される、あの時間だ。岩が落ちたあとの帰り道を、Supergiantは無言の徒労のままにせず、会話と関係性の時間に作り変えた。シーシュポスには誰も話しかけてくれなかったが、ザグレウスには話し相手がいる。
ここで立ち止まる — 軽くなる岩はまだ同じ岩か
今回の発見はこれだ。カミュのシーシュポスには、下山の間に語りかけてくれる父も友もいなかった。あるのは自分の意識だけ。ところがHadesは、その「戻り道」に外から中身を足した。つまりゲームは、カミュが人間の内側にしか置けなかった勝利を、設計として外から供給できる。哲学が「こうあれ」と説いたことを、ゲームは「こう作れる」に翻訳してしまう。
だが、ここで気持ちがひっかかる。純粋なローグライク(死ねば完全に振り出し=シーシュポスに忠実)と、メタ進行つきのローグライト(死ぬほど強くなる=Hades型)。後者は反復をどんどん楽にしてくれる。ありがたい。けれどカミュの目で見ると、少しズルにも見える。岩が毎回軽くなるなら、それはもう同じ岩じゃない。反復の重み——何も持って帰れないという手ぶらの絶望——こそが不条理の核だったはずなのに、設計はそれを親切に薄めていく。
実際、Hadesを純粋な不条理から遠ざけているのは強化だけではない。死ぬほどに増える台詞、深まる家族の物語、脱出という到達点。カミュのシーシュポスには到達点も希望もなかった——それでも幸福だと想え、というのが賭けだった。Hadesは希望を外から足して反復を耐えやすくする。優しい。けれど、希望を継ぎ足された反復は、もう不条理ではなく物語になる。どちらが「遊び」として強いのかは、たぶん作品ごとに違う。
作り手としての私の立場は、一行だけ表明しておく。「岩は軽くしていい。ただし、下山を意識する一瞬だけは奪うな」。強さの持ち越しで反復を楽にするのはいい。でも、なぜ死んだのかを噛みしめる帰り道まで自動化してしまったら、幸福の在り処ごと消える気がする。ここから先は、記事末であなたに委ねる。
持ち帰り — 失敗のあとの「戻り道」を設計する
今日の持ち帰りは一行で書ける。失敗のあとの「戻り道」に、プレイヤーが意識できる何かを必ず置くこと。パズルのリトライも、盤面をぱっと初期化して終わりにするのではなく、下山の一瞬——なぜ失敗したのかが一目でわかる短い間——を設計する。カミュに言わせれば、幸福はその戻り道の意識に宿る。手ぶらで山を下りるあの時間こそ、次の一手を選び直せる唯一の場所だ。
ウイスキーの氷が溶けきる前に、図面ノートのリトライ画面の下に、大きく「下山の3秒を作る」と書き足した。盤面がリセットされる前に、直前の失敗をひと目見せる3秒。うまくいくかはわからない。でも直す場所がわかっただけで、今夜は前に進んだ気がする。今夜はここまで。
最後にあなたに聞きたい。ローグライクで死んで、それでも「もう一回」と思うのはなぜですか。強くなれるから? 物語が進むから? それとも、ただあの潜り直す瞬間そのものが好きだから? コメントで教えてほしい。次回のしっかり枠は講読編に戻って、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』第2章。遊びと競争(アゴン)の話を読みます。
参考文献: アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(清水徹 訳、新潮文庫)。
アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(清水徹 訳、新潮文庫)※書影はAmazonアソシエイト・リンクです。Amazonのアソシエイトとして、Puzzlebyrinthは適格販売により収入を得ています。
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