ESSAY · 2026-07-17

『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ — 遊びが競争になるとき、賭けられているのは「名誉」

新連載「遊びの正体」講読編②。ホイジンガの「アゴン(競い合い)」を、作り手の目で読む

予告を少し曲げて、章を飛ばす

夜、自分のサイトのデイリーパズルに、その日の順位を出すかどうかで手が止まっていた。順位表を付ければ盛り上がる気はする。でも同時に、あの静かな一人の時間が、誰かに負ける時間に変わってしまう気もする。競争は遊びを面白くするのか、それとも壊すのか。図面ノートの端に「順位、入れる?」と書いたまま、もう二晩そのままだ。

前回まで、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ読んでいる。予告では「第2章を読む」と書いた。ところが開いてみたら、第2章は「言語のなかの遊びの概念」の話で、正直これは言語学者にまかせたい章だった。作り手の僕にまっすぐ効くのは、その次――第3章「文化を創造する機能としての遊びと競い合い」のほうだ。だから今日は、約束を少しだけ曲げて、そこへ飛ぶ。読むのは競争、アゴンの話。

念のため言っておくと、僕はゲームの研究者ではない。毎晩ここで盤面をいじっている作り手だ。だから理論は、明日の盤面に噛み砕けたぶんだけ持ち帰る。それ以上は持たない。今夜の問いは、あのノートの一行――「順位、入れる?」――だ。

文化は、競い合いの形で立ち上がる

アゴン(agōn)は古代ギリシア語で「競い合い」。オリンピアの競技祭も、悲劇の上演も、もとをたどればみんなアゴーンだった。ホイジンガはここでまた、例の過激なことを言う。人間の文化の大きな部分は、競争という遊びの形式のなかから立ち上がってきた、と。

彼が並べる例が面白い。裁判は本来「言い分の勝負」だし、古い社会では知恵くらべ――なぞなぞの応酬――で相手を負かすことに真剣な意味があった。北米先住民のポトラッチは、財産を惜しみなく配ったり壊したりしてみせて「どちらが上か」を競う、贈り物の勝負だ。詩の競演、悪口の応酬、宴席の大言壮語。どれも実利のためではなく、「勝つこと」そのもののためにある。

言われてみれば確かに、と思う。人は理由もなく、ただ競いたがる。子どもは石を遠くへ投げ合い、大人は今日の数独を何分で解けたか言い合う。得も損もないのに、そこに勝ち負けの線を一本引いた瞬間、ふっと本気になる。前回の「魔法円」と地続きだ。円を引くと真剣になる。そしてその円のなかで、人はまず競い始める。

賭けられているのは金ではなく、名誉

ここが今日いちばん持ち帰りたいところ。ホイジンガは、アゴンで本当に賭けられているのは物質的な利得ではない、と繰り返す。勝者がまず手にするのは「名誉」だ。第一であること、優れていると皆に認められること。賞品はその名誉の目に見える印にすぎない。金メダルそのものに価値があるのではなく、それが「一番」を指しているから欲しくなる。

これは作り手にとって、地味だけど決定的な区別だ。順位やスコアを入れるとき、僕らはつい「賞品」――ポイント、報酬、限定アイテム――のほうから設計してしまう。でもホイジンガに言わせれば、人が本当に欲しがっているのは、うまくやれたと認められる感触のほうだ。賞品は、その感触を映す鏡でしかない。鏡だけ豪華にしても、映すものがなければ空っぽになる。

言われてみれば確かに、と何度目かで思う。無料で遊べるパズルの結果を、人はわざわざスクリーンショットに撮って友だちに送る。一円にもならないのに。あれは賞品のためではない。「今日はうまくやれた」を誰かに見てもらうため――名誉を受け取ってもらうためだ。

順位表のいらない競争

実在の例で確かめてみる。Wordle(Josh Wardle が2021年に公開し、翌2022年にニューヨーク・タイムズが取得した)には、賞金もランキングも報酬もない。あるのは、緑と黄色のマスだけで結果を表す、あの共有グリッドだけだ。それでも世界中が競った。何回で解けたか、友だちより一段うまくやれたか。賭けられていたのは、まさに名誉――「今日はうまくやれた」の一言だった。ホイジンガの言うアゴンが、報酬設計ゼロで成立している。

逆に、賞品を厚くしても競争が痩せることもある。テトリス(アレクセイ・パジトノフが1984年に作った)の対戦がいまも熱いのは、勝ってもゲーム内通貨がもらえるからではない。相手より一列でも多く送り込み、競り勝つこと自体が目的だからだ。名誉が中心にあって、賞品は付け足しにすぎない。

うちのデイリーパズル(Tridem や CRYPTEM)を思い返しても、同じことが言える。順位を細かく刻んで他人と比べさせるより、「今日の自分」を「昨日の自分」と並べられる形のほうが、実は長く続く。名誉は、他人とだけでなく過去の自分とも競える。しかも自分との競争なら、負けても誰にも晒されない。ここに、あのノートの一行への最初の答えがある気がした。

競争が魔法円を破るとき

ただ、ホイジンガは手放しで競争を礼賛しない。本の終わりのほうで彼は、現代のスポーツが専門化・組織化されすぎて、かえって遊びの質――あの自由な「遊んでいる」感じ――を失いつつあると心配している。勝つことが義務になり、名誉が順位表の数字に固定されると、円の内側の真剣さは、円の外側の損得に汚れてしまう。

パズルでも同じことが起きる。順位を出した瞬間に、負けるのが怖くて挑戦をやめる人がいる。日々のスコアが仕事のノルマみたいに感じられ、あの静かな一人の時間が採点の時間に変わる。競争は遊びを濃くもするし、殺しもする。境目は、名誉が「認められる喜び」でいられるか、それとも「負けの恥」に反転してしまうかにある。

面白いのは、この心配自体が前回の「秩序と緊張」の話とつながっていることだ。競争は最高の緊張装置だが、緊張が強すぎれば秩序――安心して遊べる枠――のほうが壊れる。作り手の仕事は、たぶんこの一本の綱の上でバランスを取ることなんだと思う。

持ち帰り — 競争は、恥ではなく誉れを賭ける

今日の持ち帰りは一行で書ける。競争を入れるなら、賭けるのは「恥」ではなく「誉れ」にすること。うまくやれた人を照らす設計はしても、しくじった人を晒す設計はしない。順位表を出すより先に、「今日はここがうまかった」を返す一言を用意する。前回の下山の話とつなげるなら、負けた側にも、静かに次へ向かえる戻り道を残しておく。

ウイスキーを一口。図面ノートの「順位、入れる?」の下に、線を引いて書き足した。「順位表は後回し。まず『今日の自分 vs 昨日の自分』を出す」。他人と競う前に、自分と競える形を。うまくいくかはわからない。でも、迷っていた二晩ぶんの答えが一行になっただけで、今夜は前に進んだ気がする。今夜はここまで。

最後にあなたに聞きたい。あなたが順位やスコアを見て嬉しいのは、「誰かに勝った」からですか。それとも「昨日の自分より上だった」からですか。コメントで教えてほしい。次回のしっかり枠は照合編に戻って、バーナード・スーツの「遊びとは、不必要な障害を自分から引き受けること」という定義 × スピードラン。わざわざ不便な回り道を選ぶ遊びの話を読みます。

参考文献: ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫 訳、中公文庫)第3章「文化を創造する機能としての遊びと競い合い」。

ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫 訳、中公文庫) 書影ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫 訳、中公文庫)※書影はAmazonアソシエイト・リンクです。Amazonのアソシエイトとして、Puzzlebyrinthは適格販売により収入を得ています。

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