RETRO-REVIEW · 2026-07-09
Monument Valley(2014) — 不可能建築を歩く、モバイル黄金期の一篇
フリーミアムの荒野に現れた、六人組の建築譜
はじめに
これは2014年4月3日、iOS向けに配信が始まった『Monument Valley』の話である。開発はロンドンのデザインエージェンシー ustwo から派生した ustwo games、率いたのはリードデザイナー兼ゲームディレクターのケン・ウォン、チーム・クリエイティブ・オフィサーのダニー・グレイを含め、わずか六人の小さな一座だった。プレイヤーは声を発さない王女イダを操り、宙に浮く不可能な建築を、ブロックを動かし視点を切り替えながら十の章にわたって歩かせる。
私はこの作品を、単なる懐かしいヒット作としてではなく、視点そのものを建築の材料として扱う遊びの系譜における一つの結節点として読み直したい。2008年の『echochrome/無限回廊』について書いたとき、私はこの二作がしばしば因果関係で語られることの危うさに触れた。ここでは同じ議論を繰り返さず、むしろ Monument Valley 自身の生まれと時代、そして十年を経て辿った道筋を、できる限り一次証言に基づいて確かめたい。
以下、まず2014年という App Store の気候——フリーミアムが覆っていた市場に、有料一括購入という逆張りで現れたという文脈——を確認する。続いて不可能図形がどのように「歩ける遊び」へ翻訳されたかを分解し、最後に賞と数字、そして本作が発売から八年を経てどこへ流れ着いたかを辿っていきたい。
不可能な階段を歩む小さな人影(イメージ・AI生成)
その時代の文脈
2014年の App Store は、無料配信と課金アイテムを前提としたフリーミアムのゲームで溢れていた。当時のレビュアー、スティーブ・パリスは本作の紹介文で「かつて活気に満ちた革命だったものが、模倣作と、子供からも金を搾り取ろうとする課金地獄の雪崩に取って代わられている」と苦言を書き、その荒野の中に Monument Valley が「驚きと喜び」をもって現れたと評している。本作の価格は2.49ポンド(3.99ドル)、買い切りだった。
ustwo は2004年、マット・ミラーとジョン・シンクレアがロンドンで立ち上げたデザインエージェンシーであり、モバイルゲームはその新規事業だった。ケン・ウォンを含む小さな開発チームは、デザイン事務所らしい感性でゲームを作ろうとしていたという。当初の目標は控えめに10万ダウンロード、いわば会社のショーケースとして企画されたプロジェクトであり、六人という体制もその出自にふさわしい規模だった。
着想の経緯もまた率直だ。クリエイティブ・オフィサーのダニー・グレイによれば、初期は大量のコンセプトアートをスタジオの壁に貼り、意見を募った。最も反応を集めたのが、建築物のアイソメトリック(等角投影)ドローイングだった。そこから「点Aから点Bへ人物を導く」単一画面の試作が生まれ、あるスライド式ブロックが「不可能」に動いて見えるグラフィックの不具合が、そのまま錯視という核心のアイデアへと転じたという。発売直後、Apple は App Store で本作を強く後押しし自社の宣伝にも使ったが、Google 側は課金要素を持たないアプリとして当初は消極的だった、とグレイは語っている。
無数のアプリの中で一つだけ光る塔(イメージ・AI生成)
メカニクス
着想の核はケン・ウォン自身が語っている。「以前から建築についてのゲームを作りたいと思っていた。ブレインストーミングの最中に『上昇と下降』(1960年)に出会い、そこから人物を建物の下から上へ導くという発想が生まれた。カメラを遠くに置き、アイソメトリック視点を使うことで、建築そのものを主役にできた」。M.C.エッシャーの石版画、とりわけ円環をなす階段の絵が、本作の設計図の起点だったことになる。
実際のプレイでは、タップでイダを動かし、レバーやブロックを操作して構造そのものを変化させる。当時のレビューが書き残しているとおり、「進める唯一の方法は、エッシャー風の不可能な立体を自らつくり出すこと」であり、離れた通路が、ある角度から見た瞬間に一本に繋がって見え、そこをイダが渡っていく。似た発想の作品として本作はしばしば echochrome と並べて語られるが、ウォン自身は「チームの一部は echochrome を知っていたが、プレイしたのはごく数名。Sword & Sworcery、Portal、Windosill の方がはるかに大きな影響を与えた」と明言している。この因果関係の検証は、私が echochrome について書いた記事に譲る。
デザインの方針も証言が残っている。グレイによれば「駄作は一つも入れない、それぞれの章に固有の仕掛けを持たせる」という基準で、当初30あった章を10まで削ったという。ウォンもまた、「短く、焦点の絞られた体験の方が、人を過度に苛立たせない価値がある」と述べ、ゲームを終える際の「閉じられた感覚」を重視したと語っている。ハードコアな挑戦性よりも、誰もが完走できる約2時間の体験を選んだことが、後年の評価を分ける分水嶺になった。
回転する不可能三角形と、その上を歩む足跡(イメージ・AI生成)
現代への系譜
発売から一年ほどのち、ustwo は本作の実績を「数字で見る Monument Valley」として公開している。それによれば販売本数は244万76本、売上は585万8625ドル、開発費は85万2000ドル超、開発期間は55週間だったという。同時期、本作は Apple Design Award(2014年)、BAFTA Games Award の Artistic Achievement 賞(2015年)、D&AD 賞を受けている。Netflix ドラマ『ハウス・オブ・カード』に劇中の重要な小道具として登場するなど、ゲームの外側にまで届く文化的な越境も起きた。
本作はその後も枝を広げている。追加章「Forgotten Shores」で当初削られた内容の一部を補い、2017年には続編『Monument Valley 2』が発売された。クリエイティブ・オフィサーのダニー・グレイは2024年の取材で、シリーズ全体の累計インストール数が1億6000万を超えたと語っており、六人で始まった仕事が十年を経て抱えた規模の大きさを物語っている。
業界の評は、本作がミニマルで静謐な意匠を持つ「アートゲーム」というジャンルの基準点になったと位置づける。2019年に登場した『Fracter』は、報道の中で「Monument Valley の足跡をたどるアイソメトリックパズル」と評された一本である。そして2022年7月12日、本作は Panoramic Edition として PC 版が登場し、さらに Steam でも『Monument Valley Panoramic Collection』としてバンドル配信されるに至った。モバイル発の、Steamに並ばない作品として2014年に生まれた本作は、八年の時を経て、私がふだん掘り返している境界そのものを、静かに越えていったわけだ。
一つの泉から枝分かれする流れ(イメージ・AI生成)
参考文献
本記事で参照した情報源:
・Wikipedia: Monument Valley (video game)
・TechCrunch: Monument Valley, ustwo's Sumptuous Escher-Inspired iOS Game, Lands Globally On April 3
・Wallpaper*: Monument Valley at 10
・Steve Paris: Monument Valley - Interview with Ustwo
・Kill Screen: How M.C. Escher's "little worlds" inspired Monument Valley
・Architizer: Building Beautiful Worlds — A Conversation With Ken Wong
・iPhoneHacks: Monument Valley by the numbers
・The Indie Game Website: Fracter is the isometric puzzler following in Monument Valley's footsteps
・Steam: Monument Valley Panoramic Collection
・関連記事: 本サイト「echochrome/無限回廊(2008)」(echochromeとの影響関係の検証はこちらを参照)
おわりに
数字や賞を並べたあとで、私が最後に思い出すのは、そうした成果よりも静かな一場面である。十の章を、声もなく歩いていくイダの姿だ。宙に浮いた白い建築の上で、視点を変えるだけで道が生まれ、また消える。派手さのない、けれど確かな手つきで作られたその十章は、2014年という、無料と課金が支配していた荒野の中で、購買という一度だけの約束を交わした数百万人の手のひらに収まっていた。
歴史的に見て、この作品の位置はこう言えるだろう——不可能図形という20世紀美術の遺産を、六人という小さな座組みで、モバイルという新しい流通の中に据え直した仕事である。エッシャーの階段は、もう紙の上だけのものではない。2014年のこの一本以後、視点を歩く遊びは、携帯の中でも当然のように存在できるようになった。そして2022年、それは巡り巡って PC とSteamにまで届いた。
夕暮れの小さな足場に佇む人影(イメージ・AI生成)
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