DESIGNER-STUDY · 2026-08-29
droqen の哲学 — 「ゲームプレイを殺す」と言った本人が、標語を書き直す
『Starseed Pilgrim』『The End of Gameplay』
はじめに — 看板に「殺したい」と書く人
ゲームを作る人が、自分の看板に「ゲームプレイを殺したい人」と書いている。droqen は自分のサイトの一行紹介にそう名乗っている。「droqen or, Alexander Martin :the one who wants to kill gameplay」(本人サイト ↗)。
droqen はカナダのゲーム作家である。2013年の『Starseed Pilgrim』で名前が知られた。種を植えて足場を育てるパズルだが、遊び方の説明がほとんどない。何が起きているのかを、プレイヤーが自分で見つける作りだ。
そして2025年、彼は『The End of Gameplay』を出した。題名がそのまま「ゲームプレイの終わり」である。看板と作品名がここで一致した。
面白いのはその先だ。2025年の夏、標語を掲げた本人が、その標語を自分で書き直した。この記事はその書き直しを追う。
『The End of Gameplay』(2025)。Steam ストアページの公式スクリーンショットより
経歴 — IRC の一言から始まった
『Starseed Pilgrim』の発端は、チャットで誰かが言った一言だった。「What if you made a game where you had to plant platforms?」。本人が2013年のインタビューでそう明かしている(Game Developer, 2013年3月 ↗)。最初の試作は2010年10月11日に出ている。
完成までは2年半ほどかかった。ただし作り続けていたわけではない。「Starseed Pilgrim had been 90% done for a year and a half before I finally finished it」と本人は言う。9割の状態で1年半、動かせなかったのである。
最後の1割を埋めたのは他人の手だった。音は Ryan Roth が発売の1〜2週間前に来て、3日でほぼ全部作った。絵は Mert Batirbaygil が担当し、本人が「desaturated and kinda ugly art」と呼んでいた画面を、色のある風景に変えた(いずれも同インタビュー)。
その後の彼は、小さな作品を数多く出す作家になる。そして2025年、『The End of Gameplay』の発売に合わせて、自分でフォーラム(hidden.droqen.com)を立てた。ここが本記事の主な資料になる。考えを書き、他人の感想に本人が返事を書く場所である。
『Starseed Pilgrim』(2013)。Steam ストアページの公式スクリーンショットより
哲学 — 殺したかったのは、ゲームプレイではなかった
「kill gameplay」は長いあいだ彼の看板だった。2025年5月にポッドキャストに出たときの回の題も「Who Could Want Gameplay?」である(Everybody's Talking At Once, 2025年5月12日 ↗)。
ところが2025年8月4日、本人はフォーラムに「we can do whatever we want.」という題の投稿を立てる。そこで彼は、「kill gameplay」を掲げたせいで、もっと根っこにある考えから目が逸れてしまった、という趣旨を書いている(原典 ↗)。
根っこにあるのは「do whatever you want」。やりたいことをやれ、そしてそれを妨げているものが何かを見きわめろ、という話だ。彼の整理では、「殺す」は目的ではなく、その考えを突き詰めたときに出てくる結果でしかない。
同じ投稿で彼は、人を助けるとは相手がそれをやれるようにすることだと書き、必要な力を並べている。自分の望みに気づく力、本物の障害と思い込みの障害を見分ける力、そして自分を受け入れる力。そこには「何をすべきか」を人に言う項目がない。
説教しないことは、彼が自分で言葉にしている。「personally, i want to get even further away from the finger wagging type of art」(2025年7月26日、原典 ↗)。指を振って諭す芸術から、もっと離れたい、という意味である。
こだわり — 説明しない、を12年続ける
2013年の彼は、説明を入れなかった理由をはっきり述べている。「I never added clear instructions because I have no love for those, and I learned that the world became more interesting that way」。説明が好きではない、そして入れないほうが世界が面白くなると学んだ、ということだ。
続けてこうも言う。「Much of the game's strength comes from what you discover and I wouldn't ruin that for you for anything」。この作品の強さの多くは発見にあるから、何があっても台無しにしたくない。作り手が自作のネタバレを拒む言い方である。
12年後の彼も、同じところをいじっている。2025年の投稿で本人は、『HANDMADEDEATHLABYRINTH』や oubliettes などの初期作は「空白」をもっと教え諭す形で扱っていた、と振り返る。そして『The End of Gameplay』は、そこを気にせずにどこまでやれるかを示した段階だ、という趣旨で書いている。
説明を減らす作り手は他にもいる。Stephen Lavelle もそのひとりだ。ただ droqen の場合、減らす対象が遊び方だけでなく、「作者からの評価」にまで広がっていく。次の節がその話になる。
失敗と、その引き受け方 — 自作を「散らかった代物」と呼ぶ
まず古い失敗から。『Starseed Pilgrim』は9割の状態で1年半止まっていた。本人が自分で言っている数字である。完成しない期間の長さを、彼は隠していない。
新しい失敗はもっと具体的だ。『The End of Gameplay』の発売後、彼はレビューや私的な感想を大量に読み込み、2025年7月6日にその感想を書いている(原典 ↗)。
そこで彼は自作の一部を厳しく採点する。「open field」と呼ぶ場面については「i don't love, that clashes with the vibe」。雰囲気とぶつかっている、と。「crisis」と呼ぶ場面は「a sprawling mess」、散らかった代物だと書いている。
もっと調子を揃えられたのではないか、もっと迷わずに進めるようにできたのではないか。彼はそう自問している。ここまでは、よくある作者の反省に見える。
違うのは結論だ。彼は作品が「gives me a feeling of sadness」を残し、同時に「a desire to do better」を生む、と書く。そして自分にこう問う。「what am I going to do with the way that it makes me feel?」。直すのではなく、この気持ちをどう使うか、という問いの立て方である。
『The End of Gameplay』(2025)。Steam ストアページの公式スクリーンショットより
ジレンマ — 直せるのに、直さない
欠点が分かっていて、直す手段もある。それでも彼は直さない。理由を本人がこう書いている。「to change in response to reviews, wouldn't that make it more of the time, more generic, more temporary?」。
レビューに合わせて変えれば、その時代のものになり、ありふれたものになり、一時的なものになるのではないか。さらに彼は、変えてしまえば読んだ人たちの解釈を軽んじることになる、という趣旨も書いている。
作品をよくしたい気持ちと、作品を自分の外の点数に合わせたくない気持ち。この二つが正面からぶつかっている。彼は前者を諦めることで後者を守った。
もうひとつのジレンマは、標語そのものにある。「ゲームプレイを殺すなら、そこにはゲームプレイがあったはずの空白も残るべきか」。この問いに彼は興味を示しつつ、『The End of Gameplay』に空白がないように感じられるのは、実際にはそこにゲームプレイが入っているからだ、と答えている(2025年7月26日)。殺すと言いながら、残している。本人がそれを認めている。
影響源 — 本人が認めているもの
はっきり名指しされている本が一冊ある。アーシュラ・K・ル=グウィンの『所有せざる人々』(The Dispossessed, 1974)だ。2025年7月13日、彼はこう書いた。「sorry, it turns out that kill gameplay is actually just a longing for anarchy」(原典 ↗)。
「kill gameplay」は結局、アナーキーへの憧れでしかなかった、と自分で言ったのである。同じ場所で本への感想も書いている。「i love this book. it also made me very sad and not in the usual way that a book will make me sad」。
アニメでは『.hack//SIGN』。2025年7月2日の短い書き込みで、「rewatch hack sign, consider my long lasting appreciation in it through the kill gameplay lens」と自分に宿題を出している(原典 ↗)。長く好きだった理由を、いまの枠組みで読み直すつもりらしい。
彼はこうした作品を「media that kills」という括りでフォーラムに並べている。『イカゲーム』もそこにある。何かを壊してくる作品、という括り方だ。
制作上の影響もある。『Starseed Pilgrim』の音を3日で作った Ryan Roth と、絵を変えた Mert Batirbaygil。本人が2013年のインタビューで名前を挙げて、作品を変えたのは彼らだと言っている。
『Starseed Pilgrim』(2013)。Steam ストアページの公式スクリーンショットより
Kizuki の読み — 殺したいのは、他人が決めた点数
ここからは私の解釈である。彼の三つの言葉を時間順に並べてみたい。「kill gameplay」、「sorry, it turns out that kill gameplay is actually just a longing for anarchy」(2025年7月)、「we can do whatever we want.」(2025年8月)。否定形で始まった標語が、一か月で肯定形に置き換わっている。
私はこの人を、遊びを憎んだ人ではなく「他人が決めた点数」を憎んだ人だと読む。ゲームプレイとは、うまくやったかどうかを誰かが先に決めておく仕組みでもある。その仕組みが嫌なら、殺すという言い方になる。だが本当に欲しかったのは、点数のない場所のほうだ。
そう読むと、レビューを読んでも直さないという判断が、へそ曲がりではなく一貫性に見えてくる。外の点数に合わせて作品を動かせば、彼が壊したかったものを自分で建て直すことになるからだ。「殺す」から「やりたいことをやる」への書き直しは、看板の掛け替えではなく、同じ主張の言い直しだったと私は整理している。
おわりに — どこから触れるか
最初の1本は『Starseed Pilgrim』でよい。何も説明されない最初の15分に耐えられるかどうかで、この作り手との相性がだいたい分かる。
次が『The End of Gameplay』。ただしこちらは短くても消耗する作品だと、本人自身が書いている。時間より気力のあるときに。
そして読み物としては hidden.droqen.com が面白い。作者が自作の欠点を自分で書き、他人の感想に返事をしている場所は、そう多くない。
近い作り手をたどるなら、説明を減らすStephen Lavelle、空間そのものを主題にするWilliam Chyr、うまくいかないことを設計するBennett Foddyあたりが並びとして自然だと思う。
参考文献
本記事で参照した一次資料:
・Game Developer「Road to the IGF: Starseed Pilgrim」2013年3月8日(本人インタビュー)
・hidden.droqen.com「we can do whatever we want.」2025年8月4日(本人投稿)
・hidden.droqen.com「the absence of gameplay」2025年7月26日(本人投稿)
・hidden.droqen.com「reviewing reviews, revisiting The End of Gameplay」2025年7月6日(本人投稿)
・hidden.droqen.com「media that kills: The Dispossessed」2025年7月13日(本人投稿)
・hidden.droqen.com「media that kills: .hack//Sign」2025年7月2日(本人投稿)
・Everybody's Talking At Once #184「Who Could Want Gameplay?」2025年5月12日(本人出演)
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