HISTORY · 2026-10-04

ハノイの塔(1883) — 数学者が偽名で売り出した、六十四枚の円盤の伝説

リュカの偽名、ブラフマーの塔、最短手数の式、そして四本の棒の証明まで

はじめに — 三本の棒と、大きさの違う円盤

これは1883年にフランスで売り出された、木の円盤を三本の棒の間で移す遊びである。円盤は大きさがすべて違い、最初は一本の棒に、大きい順に積まれている。目標は、これを別の棒へそっくり移すことだ。

規則は二つだけ。一度に動かせるのは一枚。そして、小さい円盤の上に大きい円盤を載せてはならない。三枚なら七手で終わる。五枚なら三十一手かかる。枚数を増やすと、手数は急に膨らむ。

考えたのはフランスの数学者エドゥアール・リュカである。ただし売り出したときの名義は、リュカ本人ではなかった。「シャムのN・クロース教授」という架空の人物が作者として載っていた。

三本の棒の左端に、五枚の円盤が大きい順に積まれているイメージ(AI生成)大きい順に積まれた五枚の円盤のイメージ(イメージ・AI生成)

その時代の文脈 — 偽名の教授と、ブラフマーの塔の伝説

リュカの偽名「N. Claus (de Siam)」は、「Lucas d'Amiens(アミアンのリュカ)」の文字を並べ替えたものだとされる。日本語版 Wikipedia も、勤務先の学校名と本人の名前のアナグラムだと説明している。

遊びには、説明書の形で伝説が付いていた。インドのベナレスの寺院に、純金の円盤が六十四枚ある。僧たちが、同じ規則で昼も夜も塔を移し替えている。全部移し終えたとき、世界は終わる、という話だ。

箱の名前は「ハノイの塔」、説明書の塔は「ブラフマーの塔」だった。ハノイはベトナム北部の都市である。東洋の神秘を匂わせる名前を並べて、数学の遊びに物語を着せたのだ。

リュカの解説は、のちに遺作『数学遊戯(Récréations mathématiques)』にも載った。小冊子としての刊行は1889年である。数学者が自分の名を伏せ、遊びとして売る。十九世紀の数学ブームらしい工夫だった。

夜空に月と、重なる屋根を持つ塔の影が立つ情景のイメージ(AI生成)伝説の「塔」を連想させる夜景のイメージ(イメージ・AI生成)

メカニクス — 小さな問題に分けると、手数が数式になる

解き方の核は、問題を小さくすることだ。n枚を移すには、まず上のn−1枚を空いた棒へ避ける。次に一番大きい円盤を目的の棒へ置く。最後に避けておいたn−1枚を、その上へ戻す。

これを繰り返すと、最短の手数は 2のn乗−1 になる。3枚なら7、5枚なら31。この式は英語版 Wikipedia にも載る基本事項である。1枚増えるごとに、手数はほぼ倍になる。

六十四枚なら、2の64乗−1 手、つまり18,446,744,073,709,551,615 手である。一秒に一手動かしても、約5850億年かかる。伝説の「世界の終わり」は、宇宙の今の年齢よりはるかに先にあることになる。

この計算で、遊びは手でやる遊戯から、数え方の練習に変わった。どれだけ速く動かしても足りない。だから「規則を見つければ、考えなくても全部わかる」という体験が生まれる。

三枚の円盤を七手で移す八つの局面を並べた図解三枚の円盤を七手で移す、八つの局面(図解・イメージ・AI生成)

現代への系譜 — 棒が四本になると、百年以上の宿題になった

棒を四本に増やした場合も、よく研究されてきた。英語版 Wikipedia によると、四本以上の棒での手順は、1941年のフレーム–スチュワートの方法として知られる。最短かどうかの証明は、長く残された。

2014年6月、ティエリー・ブーシュが、四本の場合にこの手数が確かに最小だと示す論文(プレプリント)を公開した。ブーシュ自身が書くとおり、この予想は計算機で N=30 まで確かめられていたが、証明はなかった。

遊びの形は、心理学にも渡った。1982年に心理学者ティム・シャリスが作った「ロンドン塔課題」は、ハノイの塔に関連する検査として知られ、計画を立てる力を調べるのに使われる。

当サイトの別記事にも、ハノイの塔が登場する。同じ「手順を読む」遊びという点では、[九連環(1872)](/articles/baguenaudier-1872)が近い親戚だ。AIの推論力を測る話は、[Pereira らの論文紹介](/articles/paper-pereira-hanoi-world-model)で読める。

小さな三角形が三つずつ集まり、大きな三角形を作る入れ子の図形のイメージ(AI生成)小さな問題が大きな問題を作る入れ子構造のイメージ(イメージ・AI生成)

参考文献

本記事で参照した情報源:

・Wikipedia(英): Tower of Hanoi

・Wikipedia(日): ハノイの塔

・Thierry Bousch: The Fourth Tower of Hanoi(2014年6月15日付プレプリント)

・Wikipedia(英): Tower of London test

※「シャムのN・クロース教授」の偽名と64枚の伝説は上記 Wikipedia の記述による。1889年の小冊子刊行も同様。一次の説明書は確認していない。

おわりに — 数学者が、物語で遊びを売った年

1883年のハノイの塔が示したのは、規則が二つで済む遊びでも、深い構造を隠せるという事実である。円盤を動かすたびに、私たちは再帰の形をなぞっている。

伝説は作り話だ。しかし作り話があったから、「六十四枚」という数字が人の記憶に残った。数学と物語を一緒に売る手は、百四十年たった今も古くない。

あなたの手元に、三本の棒はあるだろうか。なければ、コイン三枚と紙に引いた三本の線でも十分だ。まず三枚で、七手を確かめてほしい。

夕日の前に三本の棒と、一枚の小さな円盤が立つ静かな情景のイメージ(AI生成)三本の棒と一枚の円盤だけが残る、静かな情景のイメージ(イメージ・AI生成)

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