ESSAY · 2026-07-31
『ホモ・ルーデンス』を1章ずつ — 戦争が遊びでいられる、たったひとつの条件
新連載「遊びの正体」講読編③。ホイジンガの「遊びと戦争」を、対戦ゲームを作る目で読む
競争の次は、戦争の話をするのが筋だ
前回、講読編でホイジンガの「アゴン(競い合い)」を読んだ。競争は名誉を賭ける遊びだ、という話だった。読み終えて、当然の疑問が残った。競争が激しくなって、相手を「倒す」ところまでいったら——つまり戦争になったら、それはもう遊びじゃないんじゃないか。ウイスキーを一口。図面ノートには「対戦モードの空気、どう設計する?」とだけ書いてある。
自分のサイトに対戦っぽい要素を入れようとして、毎回ここで手が止まる。スコアや順位までは、前回の通り「名誉の賭け」で説明がつく。でも人と人を直接ぶつけると、急に別の何かが混じる。煽り、晒し、勝った側の見下し。あれは遊びの続きなのか、それとも遊びの終わりなのか。
ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』で、まさにその境目を「遊びと戦争」の章で書いている。戦争ほど遊びから遠そうなものはない。なのに彼は、ある条件を満たした戦いは遊びの一種だと言う。今夜はその条件を、作り手の目で読む。
規則に縛られた戦いは、殺し合いではなく競技だ
ホイジンガの主張はこうだ。戦争が、互いを「敵」と認め合った相手同士の、権利や名誉を賭けた争いであるかぎり、それはアゴン——競技——の一形態である。宣戦を布告し、開戦の作法を守り、休戦の約束を交わし、決着のつけ方を事前に取り決める。この「取り決めに従って争う」という一点で、戦争は遊びと同じ骨格を持つ、と彼は言う。
彼が引くのは『イリアス』だ。トロイア戦争のさなか、パリスとメネラオスが全軍を止めて一騎打ちをする。勝ったほうの言い分を通すと両軍が誓いを立て、観衆——つまり全軍——が見守る中で決闘する。これは殺戮ではなく、ルールと立会人のある試合だ。中世ヨーロッパの決闘裁判も同じで、争いを個人戦にまで縮小し、勝敗で理非を決めた。
専門用語をもう一つだけ。神明裁判(オーダル)——たとえば熱した鉄を握らせ、火傷の治り方で有罪かどうかを読む、神が勝敗を決するとされた儀式だ。ホイジンガはここに、競技と運と裁判がまだ分かれていなかった時代の名残を見る。勝負に「正しさ」を委ねるこの感覚は、いまのゲームの「実力で決着をつけよう」と、ほとんど地続きだと思う。
フェアな戦いとは、相手を対等な者として立たせること
ここがこの章の芯だと思う。戦いが遊びであるためには、相手を「対等な者」として認めていなければならない。ルールを共有できるということは、相手を同じ土俵に立つ資格のある存在として扱うということだ。騎士道の「名誉ある戦い」も、武士の作法も、根っこは同じ——敵を蔑む代わりに、敵を敬う。
逆に言えば、相手を対等と認めなくなった瞬間、戦争は遊びをやめる。ホイジンガは、相手を「人間ですらない蛮族」と見なして皆殺しにする戦争には、もう遊びの要素は残っていないと書く。ルールも名誉も立会人もいらない、ただの破壊。彼が近代の総力戦を苦い顔で眺めていたのは、そこから遊び=文化を作る力が抜け落ちていたからだ。
作り手として背筋が伸びるのは、この線引きが「暴力の量」ではなく「相手の扱い」で引かれていることだ。どれだけ激しくぶつかっても、相手を対等な人として立たせているうちは遊びでいられる。逆にどれだけマイルドな対戦でも、相手を見下す設計になっていたら、そこはもう遊びの外だ。
この「相手を対等な者として認める」という条件は、連載の初回に読んだホイジンガの魔法円ともまっすぐつながっている。魔法円の内側では、敵ですら“同じ円の中で一緒に遊ぶ者”になる。だから戦いが遊びであるとき、目の前にいるのは「殲滅すべき対象」ではなく「同じルールを引き受けた共演者」だ。この一点を忘れた瞬間、対戦の設計はいとも簡単に殺伐へ傾く。
照合 — For Honor と、プレイヤーが自分で張った掟
実在のゲームで確かめる。For Honor(Ubisoft Montreal 開発、2017年)。騎士・ヴァイキング・侍が斬り合う対戦アクションで、上・左・右の三方向で攻防を読み合う「Art of Battle」という剣戟システムが芯にある。タイトルからして「名誉のために(For Honor)」だ。1対1で技量だけをぶつける「Duel(決闘)」モードは、まさにパリスとメネラオスの一騎打ちの現代版に見える。
「Art of Battle」で面白いのは、攻撃も防御も上・左・右のどこに置くかを、相手の構えを読みながら合わせる点だ。つまり決闘は、力比べであると同時に「相手の意図を読み合う」共同作業になる。相手を無視して殴れるゲームではなく、相手をよく見ることを強いるゲーム——ホイジンガの言う「対等な者同士の競技」を、操作のレベルでそのまま形にしている。
面白いのはここからだ。この作品には、開発元が書いたルールブックとは別に、プレイヤーが自然発生的に張った「名誉の掟」がある。1対1の場に横から斬り込む「ガンク」をしない、崖際に追い詰めて落とす「レッジング」を控える、倒れた相手が起き上がるまで待つ——ルールに書いていないのに、多くのプレイヤーがそれを守る。ホイジンガの「取り決めに従って争う」が、公式ルールの外側でもう一度立ち上がっている。
そしてこの掟を巡って、コミュニティは割れている。「名誉を守ってこそ本当の実力が分かる」という側と、「ガンクも含めてゲームだ」「これは“For Honor(名誉のために)”であって“with honor(名誉をもって)”ではない」という側。まさにホイジンガの言う、遊びが競技であり続けるための「相手を対等と認める合意」が、いままさに交渉されている現場だ。作り手が引いた線の外側で、遊ぶ側が自分たちの魔法円を引き直している。
対戦が遊びをやめる瞬間
だから対戦を作るとき、いちばん怖いのは「暴力の激しさ」ではなく「相手を対等と認めさせない設計」だ。課金額で勝敗がほぼ決まる pay-to-win、負けた相手を晒して嗤う導線、煽り(挑発)エモートだけが妙に充実した作り。どれも、勝ち負け以前に「相手を見下していい」という空気を設計に埋め込んでしまう。そこはホイジンガの言う、遊びが抜け落ちた戦争に近い。
逆に、優れた対戦ゲームは相手を立てる仕掛けを必ず持っている。試合後の握手やGG(good game)の文化、実力を近づけるマッチング、投了や降参を「恥」ではなく作法として扱うUI。For Honorのプレイヤーが掟を自作したように、設計側が「相手は対等な人だ」という前提を仕込めるかどうか。ここに、対戦が競技のままでいられるかどうかがかかっている。
私の立場を一行だけ書くと——順位表より先に、相手の顔を立てる仕組みを作りたい。勝ち負けはそのあとでいい。これは前回のアゴン(名誉の賭け)の話とも地続きで、名誉を賭けられるのは、賭ける相手を認めているからだ。
持ち帰り — 勝敗の前に、対等を設計する
今回の持ち帰りも一行にする。対戦を設計するなら、勝ち負けの仕組みより先に「相手を対等な人として立たせる」仕組みを置くこと。マッチングの精度、投了の作法、勝った側が見下せない導線。それが張れていない対戦は、どれだけ派手でも遊びの外へ転がり落ちる。
ウイスキーのグラスを置いて、図面ノートの「対戦モードの空気」の下に三行足した。「①相手を対等に見せる ②煽りより礼を厚くする ③負けを恥にしない」。For Honorのプレイヤーが公式ルールの外で名誉を張ったように、こっちは公式ルールの内側からそれを仕込めるはずだ。今夜はここまで。
最後にあなたに聞きたい。あなたが「この対戦は気持ちよかった」と思えたゲームは、何が相手を対等に見せていましたか。マッチングの精度? 試合後のひとことエモート? それとも、ただ相手がフェアに戦ってくれたという記憶? コメントで教えてほしい。次回のしっかり枠は照合編に戻って、パスカルの「気晴らし(divertissement)」× 通勤中のスマホパズル。人はなぜ、退屈を埋めるために小さな盤面を開くのか。
参考文献: ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫 訳、中公文庫)「遊びと戦争」の章より。For Honor は Ubisoft Montreal 開発・Ubisoft 発売(2017年)。
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫 訳、中公文庫)※書影はAmazonアソシエイト・リンクです。Amazonのアソシエイトとして、Puzzlebyrinthは適格販売により収入を得ています。
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