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ESSAY · 2026-08-04

運で勝った勝利は「自分の」勝利か——アレアと功績の哲学

運と手柄をめぐる、カイヨワとアリストテレスの仮想対話

「今の、運だろ」と言われた夜

深夜、ウイスキーを片手に Balatro(LocalThunk 制作、Playstack 販売、2024)を回していた。ポーカーの役でスコアを積むローグライクだ。ショップの引きがたまたま噛み合ってジョーカーが連鎖し、自己ベストの何倍もの点が出た。うれしくて、つい結果の画面を友人に送った。返ってきたのは一言、「今の、運だろ」。……運。たしかにあの引きは運だった。でも、勝ったのは私だ。いや——勝った“の”は、私か? 運が配ったものを、私の勝利と呼んでいいのか。手が止まって、またグラスが空いた。図面ノートの余白に、この問いへ正反対の答えを出しそうな二人を呼んで、差し向かいに座らせた。運もまた遊びの一等地だと言うロジェ・カイヨワと、勝利は運ではなく「その人の活動」に宿ると考えるアリストテレス。むろん実際の発言ではない。それぞれの著作から推し量った、私の頭のなかの仮想対話だ。

図面ノートの余白で、二人が「運の勝利」を裁く

カイヨワ。運で勝つのは、立派な遊びだよ。私は『遊びと人間』で遊びを四つに分けた——アゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)。君の Balatro は競争と運の混合だが、あの一撃はまさにアレアだ。そしてアレアの本質は、腕も努力も資格もいっさい脇へ置き、ただ運命に身を委ねることにある。一瞬で、一生の労働でも届かないものを手にできる——それがアレアの、他にはない味だ。だから胸を張りたまえ。あれは正真正銘の遊びだ。

アリストテレス。遊びであることは認めよう。だが君はいま、みずから「腕も努力も脇へ置いた」と言った。ならば問う——脇へ置いたものが、どうして「その人の手柄(功績)」になる? 私は『ニコマコス倫理学』で、称賛(エパイノス)は徳と、その人から出た行いにこそ向かうと書いた。運がもたらした善きものは、祝福(マカリゼイン)はしても、称賛はしない。幸運な人(エウテュケース)と、善く生きる人(エウダイモーン)は、別の名だ。あの勝利は君に「起きた」のであって、君「から」出たのではない。

カイヨワ。「その人から出た」——そこが古いのだよ、アリストテレス。君は何もかも、徳や活動という一本の物差しで測る。だがアレアの遊び手は、まさにその物差しを自分から降りることを選んでいる。腕が世界を決めるアゴンに対し、アレアは腕をゼロにして、万人を運の前で平等にする。現実が決して与えない純粋な平等を、賭けは一瞬つくり出すんだ。手柄を手放す——その放棄こそ、アレアの遊び手が能動的に選んだ一手だよ。受け身に見えて、選んでいる。

アリストテレス。なるほど、「選んでいる」と来たか。ならば、その選択(プロハイレシス)はたしかに君のものだ。賭けの卓に着くと決めたこと、負けを引き受ける覚悟——それは自発的で、君「から」出ている。だが、それこそ私の言い分だ。君のものは“賭けに入るという決断”であって、“出た目そのもの”ではない。決断は称賛できる。目は祝福できるだけだ。君はいま、勝利の手柄と、参加の勇気を、一枚に貼り合わせてはいないか。

カイヨワ。貼り合わせ、か。だが純粋なアレアなど、実は君が思うほど多くない。ルーレットは純アレアだが、Balatro は違う。何を残し何を捨てるか、どのジョーカーで束ねるか——プレイヤーは運の“幅”そのものを設計している。私も書いた、アゴンとアレアはしばしば同じ遊びの中で手を組む、と。だとすれば君の「決断だけが君のもの」は、この卓ではかなりの領土を君に明け渡すことになる。出た目は運でも、出やすくしたのは腕だ。

アリストテレス。そこは……意外にも、私が譲るところだ。むしろ喜んで譲ろう。腕が運の幅を細くするなら、その細さは君の活動(エネルゲイア)の産物だ。ただし一つ、条件をつけたい。私は『ニコマコス倫理学』でこう書いた——「一羽のツバメが春をつくるのではない、一日でも同じだ」と。幸福が一日で決まらないように、腕も一回の勝ちでは証されない。あの自己ベストの一撃だけを取り出せば、そこは運の取り分が大きい。だが百回まわして勝ち越すなら、そこに現れているのは運ではなく、君だ。

カイヨワ。同意しよう。一回のアレアの霧は、繰り返しのなかで晴れていく。回数を重ねるほど、平等をつくっていたはずの運は薄まり、下からアゴンの——腕の——地肌が透けて見える。だから君の問いへの答えはこうだ。「今の一発は私の勝利か」——半分は運のものだ。「私は Balatro が強いか」——それは、卓に何度も着いた君だけのものだ。

気づけば二人は、「一回の目」と「長い勝率」を、そっと二つの皿に分けていた。カイヨワは平等の名で運を称え、アリストテレスは活動の名で腕を数える。それでも、どちらも一回の引きだけを「手柄」とは呼ばなかった。私が友人に送ったのは、一枚のスクリーンショット——たった一回の目だった。「運だろ」と言われて痛かったのは、たぶん、あれがいちばん運の取り分の大きい一枚だったからだ。ペンを取り、図面ノートに書き足す——「一回は運のもの。私のものは、回数のほうにある。」

持ち帰り——一回は運、勝率は自分

ひとつ気づいたことがある。プレイヤーが「運ゲーだ」と冷める瞬間と、「運も込みで面白い」と乗る瞬間の差は、たいてい“腕が運の幅に触れられるか”にある。Balatro が運まみれなのに愛されるのは、引きは運でも、何を捨て何を束ねるかで勝率を動かせるからだ。純粋な運は「起きる」だけだが、管理できる運は「選べる」。作り手としての持ち帰りは一行——運はゼロにしなくていい。ただ、プレイヤーが運の幅に手を掛けられる余地を、一つは残す。出た目は運のもの、賭け方は本人のもの、と切り分けられる設計にする。

私は半歩、アリストテレス寄りだ。一回の勝ちを手柄と呼ぶのは、まだためらう。でもカイヨワの一撃——「手柄を手放す平等こそ、腕の世界に疲れた人の避難所だ」——は図面ノートに残しておく。だから運の面は消さない。ただ、それを「私の勝利」と名乗れる回数の側も、必ず一緒に見せる。勝率や自己ベストの推移が、あとから振り返れる設計に。

あなたに聞きたい。運で勝ったあの一回、あなたはあれを「自分の勝利」と数えますか、それとも「運の勝利」と切り離しますか。そして——一回の引きで決まるゲームと、百回まわして地力が出るゲーム、あなたはどちらを「実力ゲー」だと感じますか。コメントで教えてほしい。次回のかけら枠は「ソロゲーのチートは誰を裏切るのか——約束と自己欺瞞の哲学」。ひとりで遊ぶゲームでズルをするとき、破られる約束は誰との約束なのか、また二人を差し向かいに座らせます。

参考文献: ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫 訳、講談社学術文庫。遊びの四分類アゴン/アレア/ミミクリ/イリンクスと、アレア=運の遊びが腕を放棄して万人を運の前に平等にするという議論)/ アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫・立花幸司 訳、光文社古典新訳文庫。幸福=徳に基づく魂の活動、称賛は徳と自発的な行為に向かう、「一羽のツバメが春をつくるのではない」)。照合したゲームは Balatro(LocalThunk、Playstack、2024)。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫 訳、講談社学術文庫) 書影ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫 訳、講談社学術文庫)アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫・立花幸司 訳、光文社古典新訳文庫) 書影アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫・立花幸司 訳、光文社古典新訳文庫)※書影はAmazonアソシエイト・リンクです。Amazonのアソシエイトとして、Puzzlebyrinthは適格販売により収入を得ています。

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