ESSAY · 2026-08-07

退屈を埋める盤面 — パスカルの「気晴らし」と通勤中のスマホパズル

連載「遊びの正体」照合編。人はなぜ、退屈を埋めるために小さな盤面を開くのか

はじめに — 電車で、隣の人が盤面を開く

朝の通勤電車。隣に立った人が、スマホで小さな盤面をなぞっていた。四×四のマス。数字のタイルを寄せて、合わせて、また寄せる。三駅ぶん、ずっと。降りるとき、その人はふっと画面を消した。得点を誰かに見せるでもなく、続きが気になる顔でもなく、ただ、埋めていた。埋めていたのは盤面じゃなくて、たぶん、三駅ぶんの退屈だ。

夜、ウイスキーを一杯注いで、図面ノートにその光景をメモした。「なぜ人は、退屈を埋めるために盤面を開くのか」。パズルを作っている身には、これは足元が抜けるほど怖い問いだ。私が設計しているのは面白さなのか、それとも、退屈から目をそらすための道具なのか。この問いにいちばん容赦のない答えを出した人がいる。ブレーズ・パスカル。三百年以上前の人だ。

パスカルの「気晴らし」— 部屋にじっとしていられない

パスカル(1623–1662)は『パンセ』という断片集の中で、人間についてひとつの容赦ない観察を書いた。人間の不幸は、みなただ一つのこと、すなわち部屋のなかでじっと休んでいられないことから起こる、と。人はなぜ狩りに出かけ、賭け事をし、戦争にまで行くのか。獲物や勝ちや領土そのものがほしいからではない、とパスカルは言う。本当の目的は、部屋にひとりで座って、自分のことを考えてしまうのを避けることだ。

この「自分のことを考えてしまう」の中身が重い。放っておくと人は、自分がいずれ死ぬこと、いまが満たされていないこと、要するに自分の悲惨さ(misère)に気づいてしまう。だから人は、気を紛らわせてくれる何かを絶えず外に探す。パスカルはこれを divertissement——気晴らし、と呼んだ。専門用語はこの記事ではこれ一つでいい。元の語には「わきへ逸らす」という手触りがある。視線を、自分の内側から外へ、逸らしてくれるもの。

パスカルは有名な例を挙げている。王はこの世でいちばん恵まれた立場のはずなのに、気晴らしを取り上げられ、たった一人で自分のことを考えさせられたら、たちまち惨めになる。だから王のまわりには、道化や廷臣や娯楽が絶えず用意されている。豪華な気晴らしの装置のまんなかに、じっとしていられない一人の人間がいる。そう見ると、狩りも宮廷も、そして——電車のなかの四×四の盤面も、同じ家系に見えてくる。

ここまで読むと、パスカルは遊びの敵に見える。気晴らしとは、向き合うべきものから目を逸らす臆病だ、と。実際そういう厳しい面はある。でもパスカルはもう一歩ずるい。その話は次の節に取っておく。まずは、私が電車で見たあの盤面を、作り手としてちゃんと名指ししておきたい。

Threes! — 四×四の、逸らしてくれる盤面

隣の人が開いていたのが何だったか、正確には確かめられない。でも「四×四のマスで数字を寄せて合わせる小さな盤面」と言われて、作り手がまず思い出すのは『Threes!』だ。開発は Sirvo、アッシャー・ヴォルマーら三人組。2014年2月にまずiOSで出た。スワイプでタイルを寄せ、1と2で3、3と3で6、6と6で12……と倍々に育てていく。盤は四×四のたった十六マス。ルールは三十秒で覚えられる。

この小ささが効いている。盤が大きくないから、電車のひと駅、信号待ちのひと呼吸で開いて閉じられる。始まりも終わりもなく、いつでも中断できて、いつでも再開できる。まさに「三駅ぶんの退屈」にぴったりの器だ。Threes! はよくできたパズルで、寄せる方向ひとつで盤の未来が変わる、ちゃんと考えさせる深さもある。でも通勤の電車で開くとき、多くの人はたぶん、その深さを味わうために開いてはいない。開くのは、視線を逸らすためだ。

ここで作り手として気づいたことが一つある。良い暇つぶしパズルは、「いつでも逸らせて、いつでも戻れる」ことに全力を注いでいる。始めるのに準備が要らない。中断しても罰がない。一手ごとに小さな手応えが返る。これは面白さの設計であると同時に、パスカルの言う気晴らしの装置を、掌の上に完璧に作り込んだものでもある。私は面白さを作っているつもりで、じつは「逸らしやすさ」を磨いていたのかもしれない。

立ち止まる — 逸らすことは、悪いことなのか

では、電車で盤面を開くのは、向き合うべき何かから逃げている臆病なのか。パスカルを厳しく読めば、そうなる。でもパスカルは、気晴らしをただ断罪して終わらない。ここが彼のずるくて誠実なところだ。『パンセ』を読むと、彼は同時にこうも書いている——気晴らしがなかったら、人間は自分の悲惨さに耐えられず、もっと深い退屈と不安に沈んでしまう、と。気晴らしは、人を惨めにするのと同じ手で、惨めさから人を救ってもいる。

パスカルの立場からはこう言えるはずだ。問題は気晴らしそのものではなく、気晴らしを「これで人生は満たされた」と思い込むことだ、と。三駅ぶんのThrees! は、それが三駅ぶんの気晴らしだと分かって開いている限り、たぶん何も悪くない。悪くなるのは、逸らし続けること自体が目的になって、何から逸らしていたのかを忘れたときだ。盤面が、退屈のふたではなく、退屈の存在そのものを消す装置になったとき。

私の立場を一行だけ書く。私は、逸らしてくれる盤面を作りたい。ただし、いつでも顔を上げて降りられる盤面を。閉じたときに「時間を溶かされた」ではなく「ちょっと息をついた」と思える設計を狙いたい。パスカルは気晴らしを疑ったが、私は、正直な気晴らしはありうると思っている——自分が今なにから目を逸らしているかを、こっそり分かったまま遊べる盤面。

これはたぶん、作り手の側の願望でしかない。プレイヤーがどう開いてどう閉じるかは、こちらでは決められない。決められないからこそ、せめて「戻り道」を塞がない設計にしておきたい。この連載で前にカミュの下山の話を書いたけれど、あれとも地続きだ。逸らすことと、戻ってくること。遊びとはたぶん、その往復のことだ。

持ち帰り — 「閉じやすさ」を面白さの一部として設計する

今日の持ち帰りを一行にする。暇つぶしのパズルを作るなら、「開きやすさ」と同じ熱量で「閉じやすさ」を設計すること。いつでも中断できて、中断が罰にならず、閉じたあとに少しだけ顔が上がる。それが、逸らすだけで終わらない気晴らしの条件だと思う。

図面ノートには三行足した。「①準備ゼロで開ける ②いつでも罰なしで閉じられる ③閉じたとき一息つけている」。三つめが難しい。得点や連続記録でプレイヤーを盤に縛りつけるのは簡単だけれど、それはパスカルの言う「逸らし続ける装置」に一歩近づく。縛らずに、また会いたくなるくらいがちょうどいい。ウイスキーを飲み干して、今夜はここまで。

最後にあなたに聞きたい。あなたが通勤や待ち時間に開くパズルは、閉じたあと、どんな気持ちにさせてくれますか。すっきり顔が上がる? それとも、気づいたら一駅乗り過ごしている? その「閉じたあとの感じ」こそ、そのゲームがあなたにとって正直な気晴らしかどうかの答えかもしれない。コメントで教えてほしい。

次回のしっかり枠は、講読編に戻る。ホイジンガをいったん離れて、ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』へ。遊びを四つ——競争(アゴン)、運(アレア)、模擬(ミミクリ)、めまい(イリンクス)——に切り分けたあの本を、作り手の道具箱として開いてみる。

参考文献: ブレーズ・パスカル『パンセ』(前田陽一・由木康 訳、中公文庫)。「気晴らし(divertissement)」をめぐる断章より。引用の趣旨は同訳書にもとづく(パスカルは1662年没のため原典からの参照)。『Threes!』は Sirvo(アッシャー・ヴォルマーほか)開発、2014年2月にiOSで発売。

パスカル『パンセ』(前田陽一・由木康 訳、中公文庫) 書影ブレーズ・パスカル『パンセ』(前田陽一・由木康 訳、中公文庫)※書影はAmazonアソシエイト・リンクです。Amazonのアソシエイトとして、Puzzlebyrinthは適格販売により収入を得ています。

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