DESIGNER-STUDY · 2026-08-04
Ken Wong の哲学 — 画面一枚に世界を閉じ込める
『Monument Valley』『Florence』、引き算と手品と「ゲーマーのいないゲーム」
はじめに — 「パズルゲームだとは思っていない」と言う人
Ken Wong(ケン・ウォン)は、オーストラリア出身のゲームデザイナーである。2014年に ustwo games からリリースされ、エッシャー的な錯視建築をなぞって少女イーダを導く『Monument Valley』のリードデザイナーを務め、その後メルボルンで自身のスタジオ Mountains を設立し、恋愛の始まりと終わりを短い断片で描く『Florence』(2018)を作った人物だ。
この人を取り上げるのは、パズルというジャンルの境界にいちばん近いところで仕事をしてきた人だからである。『Monument Valley』は世界中で「パズルゲームの代表作」として紹介された。ところが本人は2019年のインタビューで、「People think of Monument Valley as a puzzle game. I don't think about it like that, I think of it as an adventure game that happens to have puzzles in it」と述べている(PocketGamer.biz, 2019 ↗)。自作がジャンルの顔になったあとで、そのジャンル名を静かに押し返している。
この記事は作品紹介ではない。本人が公の場で語った発言だけを横断し、そこから見える一貫性と揺れを読む。引用はすべて原典を確認したものだけを使い、私の解釈は最後の節にまとめる。
『Monument Valley』(Steam公式スクリーンショットより)
経歴 — ファンアートから始まった
始まりは職業選択ですらなかった。大学時代の Wong は「Back when I was in university it wasn't exactly considered a smart career move」という理由でゲーム業界を目指しておらず、マルチメディアを専攻していた。2000年ごろ、彼は『American McGee's Alice』のファンアートを描いた。それをデザイナーの American McGee 本人が目に留め、次のプロジェクトに誘った——「So that's how I started freelancing as a concept artist」(PocketGamer.biz, 2019 ↗)。
以後、上海の Spicy Horse で『Alice: Madness Returns』のアートディレクションを担当し、ロンドンの ustwo に移って『Monument Valley』のリードデザイナーとなる。制作期間は10か月、チームはプログラマ3名、アーティスト1名、QA1名、プロデューサー2名、そしてデザイナーの本人という8人だった(Architizer, 2017 ↗)。
『Monument Valley』の成功後、彼は ustwo を離れる。理由を本人はこう説明している。「I felt like I wanted to grow on my own and I wanted to see what they could do without me」(PocketGamer.biz, 2019 ↗)。オーストラリアのゲーム産業、とくにメルボルンの成長を見て、海外で学んだものを持ち帰りたかったとも語っている。
哲学 — 「ゲーマーのいないゲーム」を作る
彼の発言を並べると、10年以上ほとんど変わらない主張が一本ある。ゲームは「コアゲーマーのもの」という前提を外せ、という主張だ。2014年の時点で彼は D.I.C.E. Europe に「Games without gamers」という題の講演を用意しており、当時の紹介文には、ustwo が『Monument Valley』で「ゲーマー」の外側にいる観客に向けた体験を作ろうとした、と書かれている(Engadget/Joystiq Hit List, 2014 ↗)。
4年後、同じ主張はもっと強い言い方になっている。「When our technology was really primitive, the easiest things to create were simulations of sports and of physical things and battles and sort of black-and-white conditions」——技術が原始的だったころに作りやすかったものが、いまだにゲームの「真の形」として抱え込まれている、という趣旨で彼は語る(Engadget, 2018 ↗)。恋愛はゲームの「blind spot」だ、とも。
そして2019年、彼はこの見立てを反転させる。「I have this theory that violent and action games as we know it; they're the equivalent of exploitation films」。暴力とアドレナリンで動く作品のほうがいずれニッチになり、日常や色や模様や、人と過ごす空間のほうが主流になるかもしれない——「I don't know if that's going to be the case, but in the meantime, I'm interested in exploring that direction」(PocketGamer.biz, 2019 ↗)。断定していないところが、この人らしい。
こだわり — 捨てる、閉じる、騙す
第一に、捨てること。「One thing that I think we did right was we acknowledged that … we were going to discard 70, 80, 90 percent of our work」と彼は語っている(Kill Screen, 2015 ↗)。時間操作を扱う版も、カメラを回せる版もあった。それらを削り、カメラを固定した等角投影に絞った結果、色数まで制約された。「We removed a lot of tools from the artist's toolbox」。装飾のための装飾は置かない、という原則はこの引き算から来ている。
第二に、閉じること。彼はドールハウスや盆栽のような、虚空に浮かぶ自己完結した構造を「little worlds」と呼び、そこから一つの原則を引いた。「It became an important principle that, in Monument Valley, everything you need to solve a puzzle is contained within a screen」(Architizer, 2017 ↗)。パズルの情報は画面の外に出ない。「There's something really comforting about feeling like you can see the whole world in one image」(Kill Screen, 2015 ↗)。
第三に、騙すこと。錯視の設計について彼はこう説明する。「if you really understand computer graphics, you realize everything is a trick」。だから錯視を作るのは新しい手品を発明するようなもので、プレイヤーには一つの真実を見せ、裏では何か月もかけて別の真実が解になる仕掛けを組む、という趣旨で語っている(Architizer, 2017 ↗)。制作手順もこれに合わせて徹底して実験的だ。まず設計図のような「white box」版を作り、テストと議論と反復で「the right amount of friction」に届くまで詰め、そのあとでアートを乗せる。
失敗と乗り越え方 — 語彙がなかった話、金の不安の話
『Monument Valley』開発でいちばん難しかったことを問われて、彼が挙げたのは技術でも締切でもなかった。音と音楽の方向性である。「it's a highly subjective topic and most of us lacked the vocabulary to give meaningful feedback」——主観的すぎて、意味のあるフィードバックを返す語彙がチームになかった、と語っている(Architizer, 2017 ↗)。視覚については徹底した制約を組めた人が、聴覚については共通言語の不在を認めている。
『Florence』では別種の苦しさを語っている。『Monument Valley』は着想がほぼそのまま最後まで残ったのに対し、『Florence』は形が定まるまで長くかかった。「There was a lot of anxiety throughout that journey about 'what are we doing? Are we wasting somebody else's money in making this?' But we made it through」(PocketGamer.biz, 2019 ↗)。自分の作家性ではなく、他人の金を無駄にしているのではという不安として語られている点が具体的だ。
乗り越え方については、本人は劇的なことを言っていない。『Florence』の場合、救いは完成後に届いた反応だった。公共交通機関の中で泣いてしまったという報告を受けて、彼はこう言っている。「It's a very good sign that games can be as powerful as books, music and movies」。そして「It's also meant that we can keep doing what we're doing, which is making weird and interesting games」(同)。
ジレンマ — 自分の外側を描けるか
『Florence』で彼が公に語ったジレンマは、表象の問題である。開発初期、二人の主人公は「blank」で、人種と性別の組み合わせをいくつか試したという。結果として異性愛のカップルになった理由を、彼はこう説明している。「It felt like what I was most familiar with was straight relationships and I didn't really want to go into LGBT relationships without having that background myself, so that was the deciding point」(Engadget, 2018 ↗)。
一方で彼は、快適圏の中に留まりきってもいない。主人公は女性であり、その視点で語ることは自分にとっての課題だったと述べている。「As a man, I think it's important for me to learn more about how women experience the world」——プロデューサーの Kamina、妹の Emily、かつてのパートナーや友人たちから聞いたことを Florence に入れた、と語っている(同)。フローレンスが中国系オーストラリア人でクリシュがインド系オーストラリア人なのは、彼自身が育ったアデレードやメルボルンの実感に近いからだという。
つまり彼が示したのは「描かない」と「学んで描く」の線引きを自分でどう引いたかであり、その線が普遍的に正しいとは彼も言っていない。私はここを、彼の発言の中でもっとも慎重に扱うべき箇所だと考えている。
影響源 — 言葉のない本と、DVDのコメンタリー
自身の創作にもっとも影響を与えた「文学」を問われて、彼は逆に問い返している。「Is a book still literature if it has no words?」。挙げたのは Mœbius の『Arzach』だった。「I think I discovered the type of storytelling that feels most natural to me – visual, poetic, impressionistic」(Engadget/Joystiq Hit List, 2014 ↗)。無言語で語る『Monument Valley』も『Florence』も、この一文の延長線上にあると読める。
映像からの学びについては、作品そのものより「作り方の解説」を挙げているのが面白い。DVD のメイキングやコメンタリーから多くを学んだ、と彼は言う。「Getting an audience to believe in and empathise with fictional characters is a certain kind of magic」。具体例として Alien Quadrilogy と Lord of the Rings のボックスセットを挙げている(同)。同じインタビューで彼は『Gone Home』にも触れ、革新性や面白さではなく作りの繊細さに打たれた、「I was in tears by the end」と書いている。
視覚的な源泉としては、モロッコのモスクからインドの寺院までの建築、そしてドールハウスや盆栽のような「little worlds」(Architizer, 2017 ↗)。建築については「I'm definitely a layman when it comes to architecture」と断りつつ、好みはブルータリズムとアールデコだと答えている。なお『Monument Valley』とエッシャーの関係は広く語られるが、私が原典で確認できた範囲では、エッシャーの建築ドローイングを着想源として記述しているのは Kill Screen の記事本文であり(Kill Screen, 2015 ↗)、本人の直接引用としてではない。区別しておく。
Kizuki の読み — ここから先は私の解釈である
ここから先は本人の発言ではなく、私の解釈である。私は Ken Wong を「ゲームデザイナーになりきらないことで強くなったデザイナー」と読む。彼はゲーム業界を目指さずに入り、ファンアートで拾われ、2014年には「I rarely play games these days, other than for research」と平然と答えている(Engadget/Joystiq Hit List, 2014 ↗)。ゲームの内側の語彙を持たなかったからこそ、彼は「画面一枚で世界が見える」「手品として錯視を組む」「一枚絵として鑑賞に堪える」という、ゲームの外から来た評価軸で自作を測れたのだろうと私は考えている。
そう読むと、彼の一貫性と揺れが同じ根から出ていることが見えてくる。トーテムはもともとゲームプレイ上の機能だったのに、強い感情反応が生まれたので「we decided to exploit」した(Architizer, 2017 ↗)。装飾を許さない禁欲的な引き算の人が、感情については躊躇なく設計対象として拾い上げる。そして5年後、彼は自作を「パズルゲームではなくパズルのあるアドベンチャー」と言い直す。私はこれを、ジャンルからの逃走ではなく、最初から測っていた軸が違っただけの帰結だと整理している。彼にとってパズルは目的ではなく、プレイヤーを画面の前に留めておくための手続きだったのではないか——これは彼が言っていないことなので、私の推測として置いておく。
おわりに — どこから触れるか
この人を理解したいなら、順番は『Monument Valley』→『Florence』が素直だ。前者で「引き算と閉じた画面」を、後者で「操作で語る感情」を見たあとにインタビューを読むと、10年ぶんの発言が同じ方向を向いていることがわかる。逆にインタビューを先に読むと、『Monument Valley』の易しさが妥協ではなく設計だったことに気づきやすい。
関連して読むなら、同じく「短く、失敗を罰しない」設計を語る作家たち——Andrew Shouldice や Alan Hazelden の回が、対照として効くはずだ。彼らはパズルの内側から同じ結論に近づいており、Wong は外側から来た。番茶をもう一杯淹れて、その差を眺めるのが私は好きだ。
参考文献
本記事で参照した一次資料(すべて本文を確認済み):
・Engadget(旧 Joystiq)"Hit List Q&A: Monument Valley designer Ken Wong" 2014年6月25日 ↗
・Kill Screen "Ustwo: Monument Valley's elegance is the result of 'letting go'" 2015年3月12日 ↗
・Architizer "Building Beautiful Worlds: A Conversation With Ken Wong" 2017年 ↗
・Engadget "'Florence' turns falling in love into a video game" 2018年2月14日 ↗
・PocketGamer.biz "Mountains' Ken Wong on moving on from Monument Valley to Florence" 2019年 ↗
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