DESIGNER-STUDY · 2026-09-14

横井軍平の哲学 — 足りないぶんは、見る側に埋めてもらう

ゲームボーイ / バーチャルボーイ / 機械式パズル「テンビリオン」

横井軍平の設計思想を一言でいうと?

「面白いかどうかは、カラーか白黒かで決まるわけではない」。横井軍平(よこい ぐんぺい)の設計思想は、ほぼこの一文に収まる。彼は1996年のインタビューで、オセロと将棋を引き合いに出してそう語った(ゲーム批評 1996年8月 原典 ↗)。足りない情報は、遊ぶ側が埋める。彼の判断はいつもそこから始まっている。

横井は任天堂でゲーム&ウオッチとゲームボーイを作った技術者である。同時に、1980年に機械式パズル「テンビリオン」を世に出した、パズルの作り手でもある。この記事では本人のインタビュー3本を読み、哲学・こだわり・公に認めた失敗・ジレンマ・手本を並べる。

作品紹介ではなく、人物への考察である。なお彼の代名詞として知られる「枯れた技術の水平思考」は、没年に出た著書『横井軍平ゲーム館』(1997)で広まった言い回しで、ここで引く3本のインタビューには出てこない。だからこの記事では標語ではなく、発言そのものを追う。引用はいずれも英訳経由の重訳であり、原文の日本語そのままではない点をお断りしておく。

横井軍平とは、何をした人か?

横井軍平は1941年生まれの技術者・玩具設計者である。任天堂で「ウルトラハンド」(1966)から「ゲーム&ウオッチ」(1980)、「ゲームボーイ」(1989)、「バーチャルボーイ」(1995)までを手がけ、『メトロイド』『光神話 パルテナの鏡』の製作も担当した。1997年10月4日、交通事故で亡くなっている(Wikipedia ↗)。

パズルの読者には、もう一つ足しておきたい経歴がある。1980年、任天堂は「テンビリオン」という機械式パズルを発売した。透明な円筒に色つきの球を閉じ込め、二つの中段ドラムを回し、黒い枠を上下させて、色ごとに並べ直す。考案者として横井の名が記録され、米国特許4,376,537として登録されている(Wikipedia「Nintendo Tumbler Puzzle」 ↗)。

仕組みはルービックキューブに近い。ただし枠の上下運動が一度に15個以上の球を動かすため、回転だけの立方体とは手触りが違う。つまり彼は画面の中だけの人ではない。手のなかで回るパズルも作っている。1980年の任天堂「テンビリオン」を紹介する動画のサムネイル1980年の機械式パズル「テンビリオン」を扱った解説動画(Retro Collection Studio / YouTube)

1996年8月、31年勤めた任天堂を退社する。自ら株式会社コトを興し、バンダイのワンダースワンの開発を主導した。発売は1999年で、本人はその姿を見ていない。

彼は、面白さがどこにあると言っているか?

繰り返し言うのは「面白さは絵の質で決まらない」である。1996年、バーチャルボーイの単色画面について問われて、こう答えた。「たとえばオセロや将棋のような白黒のゲームを考えてみてください。実のところ、ゲームが面白いかどうかは、カラーか白黒かで決まるわけではありません」(ゲーム批評 1996)。

同じ考えを、1997年のインタビューではもっと乱暴な比喩で説明している。「黒板に丸を二つ描いて『これは雪だるまだ』と言えば、みんな白い色を感じ取る」(1997年インタビュー 原典 ↗)。足りないぶんは見る側が埋める、という話だ。

だから、色を出せる技術があってもゲームボーイは白黒のまま出した。「カラーにする技術はありました。それでも白黒でやりたかった……遊びはじめてしまえば、色は重要ではない」(1997)。

もう一本の柱は「ゲームとは競うものだ」という定義である。「『ゲーム』という言葉は競争を意味する。勝つこともあれば、負けることもあるものだ」(1997)。同じインタビューで彼は当時のゲームの質が落ちていると言い、その理由に「短編小説や映画の体験を与えようとするゲーム」が増えたことを挙げた。

この二つは別々の主張ではない。勝ち負けがあるから、絵が粗くても遊ぶ側は前のめりになる。彼は画質を軽く見ていたのではなく、見る側の想像力を設計の材料として最初から数に入れていた。

作品をまたいで繰り返し出てくる手つきは何か?

一つ目は、絵より先に動きを決めること。「まずキャラクターを、仮置きのドットに置き換える。それからどんな動きなら面白いかを考える……プレイヤーの立場に自分を置いて」(1997)。見た目は後回しで、動詞が先に立つ。

二つ目は「シチュエーション」。ゲーム&ウオッチについて「自分でいちばん力を入れたのは『状況』でした……おかしいのか、変なのか、すぐに分かるようにしたかった」と語り、『マンホール』を例に「とてもばかばかしい状況ですが、聞いただけで笑える筋書きでもある」と続けている(ゲーム批評 1996)。

三つ目は、見た目に役割を負わせること。「敵があまりに可愛く見えると、プレイヤーには敵に見えなくなる」(1997)。絵は飾りではなく、遊びの説明書として扱われている。ゲームボーイと横井軍平を扱った解説動画のサムネイルゲームボーイと横井軍平の仕事を扱った解説動画(Pieces of 8-Bit / YouTube)

四つ目は安さ。ファミコンの十字キーについて「実を言うと、予算の都合で使ったのです。当時の私たちにはいちばん安い選択肢でした」(ゲーム批評 1996)。ゲームボーイでは「どこまで薄く、軽く、小さくできるかを見たかった」とも言っている。

並べると一貫している。彼が先に決めるのは絵の情報量ではなく、動き・状況・値段のほうだ。

本人が公に認めている失敗は何か?

バーチャルボーイである。ただし認め方に癖がある。「バーチャルボーイが発売されたとき、コアなゲーマーから多くの不満が寄せられました……自分の高い志には届かなかったと感じています」(ゲーム批評 1996)。

何が足りなかったのか。まずソフトを挙げる。「通常の据置機のゲームと張り合えるローンチタイトルがあったかどうか、私には自信がありません」(同)。1995年のバーチャルボーイを扱った解説動画のサムネイル1995年のバーチャルボーイを振り返る解説動画(Gaming Historian / YouTube)

そのうえで、もっと踏み込んだ見方を口にしている。「任天堂が売らなかったほうが、うまくいったのではないかと思う部分もあります。任天堂とテレビゲームの結びつきは、人々の中で強すぎる」(同)。失敗の原因を、機械ではなく売り手の看板に置いている。

企画そのものの難しさも認めた。「実際にやってみると、新しいことを考えつくのは本当に難しいと分かりました」(1997)。新しさを旗印にしてきた人の言葉として、これは重い。

退社の理由については、のちに広まる説を本人が先回りして否定している。「実のところ、私は『バーチャルボーイの失敗の責任を取って』辞任したのではありません。それ以前から、55歳になったら独立したいと考えていました」(文藝春秋 1996年11月号・英訳の再掲 ↗)。

彼はどこで板挟みになっていたと語っているか?

一つ目は、社内を説得できるかどうか。白黒のゲームボーイを通すとき、「任天堂に理解してもらうのは難しかった。社内での自分の立場を使って押し通した部分もあります」(1997)と振り返っている。技術の話ではなく、権限の話として語っているのが率直だ。

二つ目は、看板と中身のずれ。バーチャルボーイについて「任天堂が『これはゲーマー向けではない』と宣伝していたら、人々の興味をもう一度かき立てられたのではないか」(ゲーム批評 1996)。正直に売れない商品を作ってしまった、という葛藤である。

三つ目は、戦うか、離れるか。「娯楽の種類はいくらでもあるのだから、わずかなものを取り合う必要はない。新しいものを作りに行けばいい。戦うより、新しい世界を作るほうが早いし、まっすぐだ」(同)。ただしバーチャルボーイは、その「戦わない場所」を用意しきれなかった。

四つ目は、自分の居場所。「宮本のような人たちが大きくて壮大なゲームを作れるなら、空いた時間に楽しめるゲームを作る私のような人間の居場所もあると思います」(同)。自分を主役でない側に置く言い方を、彼は何度もしている。

彼は何を手本にしていたと言っているか?

影響を受けた人物の名前を、彼はほとんど挙げない。代わりに手本として繰り返し出てくるのが、盤上遊戯と実物の玩具である。

盤上遊戯はすでに引いたとおり、オセロと将棋が「白黒でも面白い」の証拠として使われる。基準は最新のゲームではなく、何十年も遊ばれ続けてきた遊びのほうにある。

実物の玩具については、こう語っている。「机の上で玩具を見せれば、『面白そうだ』と思う。でも同じ玩具をテレビ画面に映すと、途端に『しょぼい』と思われる」「本物の人形や人の、基本的な動きには飽きがこない」(1997)。

だから次にやりたいことを、彼は「テレビから離れる」方向に置いていた。「これからの仕事ではテレビから離れようと考えています……簡単で安いものでもいいから、実物を作りたい」。そして「『マイパズル』というアミューズメント機は、20年前からあるアイデアの一つです」(1997)と、最後にパズルの名前を挙げている。

Kizuki の読み — 彼は安く作る人ではなく、仕事を渡す人だった

ここからは私 Kizuki の解釈である。本人が言っていないことを含む。

私はこの人を「安く作る人」ではなく「プレイヤーに仕事を渡す人」と読む。白黒でいい、ドットでいい、という判断はどれも節約に見える。だが発言を並べると順序が逆だ。先に「見る側が埋める」という前提があり、安さはその後から付いてくる。雪だるまの比喩は、コストの話を一度もしていない。

この読みで並べると、バーチャルボーイの弁も筋が通る。あれは想像力を働かせてもらう前提の機械だったのに、任天堂という看板が「想像しなくていい遊び」を期待させた。原因を機械ではなく売り手に置いたのは、言い逃れというより、自分の設計の前提に忠実な分析だったと私は読む。

癖でひとつ指摘しておきたい。1996年に「想像力で補ってほしい」と言った人が、1997年には「CGがどれだけ現実に近づいても、本物の映像を超えることはできない」と言い、実物の玩具へ戻ろうとしている。矛盾に見えるが、同じ主張の裏表だろう。想像力に頼るなら、頼らせる相手は画面でなくてもいい。1980年にテンビリオンを作った人が、最後に「マイパズル」を持ち出したのは、私には出発点への帰り道に見える。

どこから触れると、この人が分かりやすいか?

まず手のなかのパズルから入るのがいい。1980年の「テンビリオン」は中古で手に入り、解法の解説も公開されている。回してみると「動きから考える」という言葉の意味が体で分かる。仕組みの近い先輩としてルービックキューブ(1974)も並べて触るとよい。

画面側から入るなら、ゲームボーイのパズルが近道である。『パズルボーイ』(Kwirk)はアトラスが1989年に発売した、仕切りを回して石を押す迷路パズル。『モグラ〜ニャ』は任天堂が1996年に発売した、地上と地下の二層を行き来する押し引きパズルである。どちらも横井本人の作ではないが、彼が選んだ白黒の小さな画面が何を引き出したかがよく見える。

人物の並びで追うなら、秩序をつくる遊びを終わらせなかったAlexey Pajitnov、迷路を迷路に見せなかった岩谷徹、仕組みを足さないことを仕組みにした高橋慶太が近い。引き算の作り手たちである。

参考文献

本記事で参照した一次資料(引用はいずれも英訳経由の重訳):

横井軍平 × 飯野賢治 対談(ゲーム批評 1996年8月・英訳)

横井軍平 1997年インタビュー(聞き手: 森川幸人・英訳)

Game Developer「Yokoi remembers Nintendo's struggle to understand his Game Boy」(1997年インタビューの紹介記事)

Destructoid(文藝春秋 1996年11月号インタビューの英訳再掲)

Wikipedia「Nintendo Tumbler Puzzle」(テンビリオンの考案者・特許番号)

Wikipedia「Gunpei Yokoi」(経歴・年表)

参考にした映像:

「The Man Who Made the Game Boy | The Genius of Gunpei Yokoi」(Pieces of 8-Bit)

「Episode 11 - Nintendo Ten Billion Barrel or Tumbler Puzzle - 1980」(Retro Collection Studio)

「Virtual Boy - Gaming Historian」(Gaming Historian)

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