ESSAY · 2026-09-25
実力だけの世界は、なぜ立っていられないのか —— カイヨワ講読④
「遊びの正体」しっかり枠。第二部で本は向きを変え、社会を遊びで読みはじめる。実力の社会を下から支えていたのは、運と憧れの二本の柱だった
週ごとの順位表を作るか、四晩迷っている
夜、ウイスキーを半分残したまま、図面ノートに順位表の枠を描いては消している。自作のデイリーパズルに、週ごとのランキングを付けるかどうか。
付ければ盛り上がるのはわかっている。怖いのは、上位10人の名前が毎週同じになることだ。そうなると11位より下の人にとって、あの表は「あなたは勝てません」という掲示板になる。
今夜はカイヨワ『遊びと人間』の第二部を開いた。前回予告したとおり、ここから本は向きを変える。遊びを社会に当てはめるのではなく、社会を遊びで読みはじめる。
読み終えたら、順位表の悩みにそのまま効く考え方があった。今日はその話をする。
『Spelunky 2』のプレイ画面。Steam ストアページ掲載の1枚目(Steam スクリーンショット)
第二部は「好きな遊びで、社会を読む」本だった
第二部に入るあたりで、カイヨワは大きな考えを出す。ある社会がどんな遊びを好むかを見れば、その社会の性格が読める。遊びは文化の飾りではなく、文化のくせが一番素直に出る場所だ、というわけだ。
この考えを使って、後半の三つの章が進む。「模擬と眩暈」「競争と偶然」「現代社会への再湧出」。第一部で作った4つの箱を、今度は社会の側に当てていく。
カイヨワは社会を大きく二つに分ける。仮面と憑依(ひょうい)、つまり「なりきり」と「くらくら」が中心にある社会。そして競争と偶然、つまり実力と運が中心にある社会。前者から後者への移り変わりを、彼は文明への歩みとして描く。
「模擬と眩暈」の章で描かれるのは、仮面をかぶった者が本当に神や精霊になってしまう世界だ。踊りと太鼓でくらくらし、自分が自分でなくなる。そこでは遊びと信仰と政治が、まだ分かれていない。
もう一方の「競争と偶然」の社会では、仮面が外される。人は素顔のまま実力で競い、運を引く。ルールと記録と順位が、社会を回す道具になる。
この段階論は、割り引いて読みたい。1958年の本らしく、西洋を到着点に置いた見取り図だからだ。前々回の講読でも書いたので、今夜もそこは保留する。面白いのは、その先の細部のほうだ。
実力だけの社会は、負けた人に逃げ場がない
「競争と偶然」の章で、カイヨワは近代の社会を競争の側から見る。建前では、誰もが同じスタートラインに立ち、実力で順位が決まる。試験も、昇進も、スポーツも。
でも彼はすぐに付け加える。スタートラインは本当はそろっていない。生まれた家、育った場所、たまたま出会った先生。そこには最初から運が混ざっている。
ここからが、私に刺さったところだ。カイヨワの議論を追うと、偶然は競争の敵であるだけでなく、競争からの「逃げ道」としても働いている。実力で勝てない人は、宝くじに夢を託す。くじの前では誰もが等しく無力で、だから等しく望みがある。
もう一つの逃げ道として彼が挙げるのが、スターやチャンピオンへの同一化だ。自分では勝てない人が、勝つ誰かに自分を重ね、その勝利を少しだけ分けてもらう。彼はこれを、仮面の遊びが近代に形を変えて残ったものとして読む。
ただし、この同一化には影もある。自分では走らず、走る人を見るだけで満たされてしまう。私が読むかぎり、カイヨワはこれを手放しでは褒めていない。逃げ道は、そのまま人を閉じこめる場所にもなりうる。
つまり実力だけで回る社会は、運と憧れという二本の支えがないと立っていられない。純粋な競争は、負けた人に言い訳を一つも残さないからだ。負けは全部「あなたのせい」になる。
『Spelunky 2』のデイリーは、運を全員でそろえる
ゲームで照合する。『Spelunky 2』(Mossmouth、2020年)は、入るたびに洞窟の形が変わるアクションゲームだ。普段は、運のいい日もあれば悪い日もある。
ところがデイリーチャレンジだけは違う。世界中の全員に、同じシード(洞窟の設計図)が配られる。挑戦できるのは一日一回。死んでもクリアしても、翌日の0時(UTC)まで遊べない。
これは、スタートラインをそろえることを極限までやった形だ。運は消えていない。全員に同じ運が配られている。だから順位表に残るのは、ほぼ純粋な腕前になる。
スタート地点がまったく同じなら、差がつくのは判断だけだ。どの壺を割るか、どこで欲を出すか。順位表の一行一行が、その日の判断の記録になる。
『Spelunky 2』のプレイ画面。Steam ストアページ掲載の2枚目(Steam スクリーンショット)
面白いのは、同じゲームの普段のモードが逆の社会をやっていることだ。洞窟が毎回違うから、死んだ人は「今のは地形が悪かった」と言える。一本のゲームの中に、言い訳のある社会と、言い訳のない社会が並んで入っている。
デイリーの順位表をきついと感じる人がいるのは、たぶんこのせいだ。あそこでは、負けが全部自分に返ってくる。
『Fall Guys』は、運をばらまいて王冠を配る
反対側の例も見ておく。『Fall Guys』(Mediatonic、2020年)は、数十人が一斉に障害物コースを走り、脱落を重ねて最後の一人を決めるゲームだ。
ここでは運が思いきり撒かれている。どのステージが出るかはラウンドごとに選ばれ、ぶよぶよした体は他人とぶつかって思わぬ方へ転がる。上手い人でも、ぶつかり一つで落ちる。
その代わり、初めて遊んだ人が王冠を取ることもある。毎回ではない。でも「もしかしたら」がある。カイヨワのいう、くじの前の平等がコースの上に作られている。
負けた人は「今のは押された」と笑える。自分の下手さが、少しだけ運に溶ける。だから、もう一回ボタンを押せる。
『Fall Guys』のプレイ画面。Steam ストアページ掲載の1枚目(Steam スクリーンショット)
二本を並べて気づいた。私は、運は公平を壊す道具だと思っていた。でもカイヨワの目で見ると、運はむしろ負けを受け止めるクッションだ。問題は運の量ではない。負けたとき、その負けがどこに置かれるか——本人の中か、運の中か——だった。
前に運で勝った勝利は「自分の」勝利かで考えたのは、勝った側の話だった。今夜のは、負けた側の話だ。
持ち帰り —— 順位を置くなら、負けの置き場所も同じ画面に置く
持ち帰りを一行で書くなら——順位表を置くなら、負けた人の置き場所を同じ画面に用意する。
図面ノートには三つ書いた。一つ目。デイリーは全員同じ盤のまま残す。運をそろえた競争は、それはそれで美しいからだ。二つ目。週の順位表は作らない。
三つ目。その日解き終えた人の中から、くじで一人を選ぶ。その人の解き筋を、翌日の盤の横に一日だけ載せる。速さは関係ない。解き終えていれば、誰にでも当たる。
くじは、言い訳と望みを配る。載った解き筋は、ほかの人が眺めて自分を重ねる場所になる。カイヨワが近代の社会に見つけた二本の支えを、小さな盤の横に一本ずつ立てるつもりだ。
一つだけ決めていることがある。このくじには、お金もアイテムも賭けさせない。カイヨワ講読③で読んだとおり、運の遊びは枠を失うと迷信や賭けに崩れる。当たって得るのは、盤の横の一日だけでいい。
私の立場は、半歩カイヨワ寄りだ。実力の表は美しい。でもそれだけで回る場所は、11位より下の人を静かに帰らせてしまう。
前にカイヨワ講読②で組み合わせの章を読んだとき、競争と偶然は「決着の道具」として並んでいた。今夜わかったのは、その二つが社会の中では、勝った人と負けた人を同じ場所に留めておくための組み合わせでもあった、ということだ。
あなたに聞きたい。いちばん長く遊んでいるゲームで、負けたとき「運が悪かった」と言える場所はありますか。それとも負けは全部、自分に返ってきますか。どちらのほうが続けられるか、コメントで教えてほしい。
次回のしっかり枠はA照合型に戻ります。カント「目的のない合目的性」を手がかりに、美しい盤面はなぜ美しいのかを考えます。カイヨワ講読⑤「現代社会への再湧出」は、その次の講読回で。
参考文献: ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫 訳、講談社学術文庫)。
カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫 訳、講談社学術文庫)※書影はAmazonアソシエイト・リンクです。Amazonのアソシエイトとして、Puzzlebyrinthは適格販売により収入を得ています。
リアクション(ログイン不要)
匿名で残せます • 同じリアクションは1日1回まで
関連シリーズ
遊びの正体第22回 / 全23回
